黒い壁に赤い蝶が抽象的に描かれていた。 それが血しぶきのあとだと気づいたのは数秒たってからだった。 それをみつけたのは近所のトンネルだった。上を電車が走っていて、あたりには自転車がたくさん止めてある。目線を下へもっていくと、30代くらいのサラリーマンが倒れていた。
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怖い…。本当はそんな気持ちを抱かなければならないのに、私はそう思わなかった。 きっと目の前の人の心臓は、もうその機能を停止させてるだろう。 けれど、彼の生命から産まれたかのように描かれた蝶が現実を非現実にさせていた。 目の前の光景は、まるで一枚の絵画のように。私を魅了させるには充分だった。 これを、描いたのは誰なのか。そんなことを思う私の心はきっと壊れるんだなと、自嘲した。
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生にしがみつくような赤は、次第に黒い壁のシミと成り果てるのかもしれない。 この蝶を描いた人に会えないのなら、私が蝶を描き続けたらいいのでは……。 ただのシミにしがみつく成り果てる前に、また、この壁に蝶を。 私は辺りを見回して、誰もいない事を確認し、その場を去った。 蝶を描くには準備が必要だから。
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刃物で勢いよく首を刺せばいい。思い切り滅多刺ししなければ血しぶきはおこらないと、ある演出家が言っていた。 刃物、スウェット、タオル、エコバック。ひとつの雑貨店ですぐに手に入れた。フェイクでまな板とおたまも購入。 臭いのきつい公衆トイレで一旦着替える。まさか人生でこのトイレを使用するとは思わなかった。和式の便器に黄ばんだ汚物。だがそれも今だけだ。 先ほどの蝶よりも遥かに美しい蝶を描いてみせる。
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その時の盲目さにおいては、私は芸術家であったと言えるだろう。 道具を携え、人目につかぬようトンネルへ戻る。男が先程と変わりなく倒れていた事に、安堵した。 私は男にのしかかるとおもむろに刃物を取り出し、男の首に向かって勢いよく振りかぶって、喉に突き立てた。 手慣れているはずのない一連の動作は、しかしフランス料理を食べるかのように優雅に、自然に振る舞えた。 蝶のためなら、躊躇いなんて無かった。
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しかし、血しぶきは飛ばなかった。 死体の身体は硬くなり、刃物も刺さったまま抜けない。 初めて知った。 死んだ人間はただの肉の塊となってしまうことを。 赤く美しい蝶が描かれた壁を見る。 これを描くには、もっと新鮮な血液が必要なのだ。 私はそう悟ると、男の喉に突き刺さった包丁を両手でしっかり握り、力いっぱい引っ張った。 気のせいだろうか。 たった今、男の目玉が動いた気がする。
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それからは新しい「画材」を調達する日々が続いた。私は新鮮な血液を蝶に注いでは残骸を焼いて捨てた。 しかし蝶が最初の輝きを取り戻すことはなかった。私が血を注ぐ度に、その姿は黒く染まっていった。 何が足りないのか。 男、女、老人…果ては子供のものまで全て試したはずなのに。最初にあの蝶を舞わせた者はどうやってあそこまで美しい赤を作ったのだろう。 私は男を発見した最初の状況を思い出してみた。
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あの蝶の紅い輝きは… 現場に居合わせた私が見た形は… 美しく存在していた 殺人鬼なんかでは有り得ない… 他殺では無い事を、私は確信していた 私は本当は知っているのだ… 私が捧げた紅飛沫は他人のモノ すなわちに…その一瞬の邪がある限り 私が魅せられた、いや取り憑かれてしまった 紅い蝶 には到達するコトはないのだと
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「やはりやってしまいましたか」 翌日、首に大穴を開けたサラリーマン風の男が、トンネルの死体に歩み寄った。 「蝶に魅了された者の死体は動き続ける…」 死体は男を見た。 「何故蝶がこんなにも美しいかわかりますか?」 死体は答えなかった。 「その血の持ち主がまだ生きてるからですよ」 死体はなんとなく、男の言うことが理解できた。 「これは呪いのようなものです」 男は言った。 「次もあるでしょう」
- 完 -