この晴子という女、かなりのキワモノ女でありまして、見た目は兎か白鷺のようでありますが、心中は蛇か狐でありました。 己の利益のためなら、他人の犠牲は全く厭わない。人は切り捨てても良心はちっとも厭わない。その癖に猫かぶりは得意中の得意でありまして、男を簡単に手玉に取る。 私も、その一人でありまして、更に悪いことに一目惚れをしてしまいました。まさに人生の事故と言えます。
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「若旦那、悪い事は言わねえ、あの女はおよしなせえ。御家の財を全て喰われちまいますぜ」 馴染みの車引きにそれとなく打ち明けたところ、甚く心配してくれたものですから、こうなると私も良く無い癖が出る。男なんて生き物は、女絡みの話しとなると見栄を張りたくなるものなのでございます。 「いや、俺は晴子を逆に手懐けてみたいのだよ」 見え見えの見栄っ張りに車引きも何も返せず、代わりに私と晴子の出会いを尋ねました。
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私は茶を啜り、喉を潤わせてから滔々と事故に至るまでを語り出します。 出会いはと言えば、何とも間の悪い折節で。逢引の増える時分、私は旅籠町を足早に抜け家路を急いでおりました。その途中、ある宿の軒下で奇妙なやり取りをする男女に目が留まるのです。女の方が、初めて見る晴子でした。 男を袖にし、然しその袖口で相手の涙を拭いてやりながら「嫌いにならないでね」と囁くその姿。 普通なら滑稽極まりない筈が、
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どうした訳か私には、菩薩か天女に見えってしまったのですから困ったものでございますな。 とはいえ、私も行きずりの女に気安く声を掛けるような性分ではないし、まして相手の男もいた訳ですから、この一件はこれにて仕舞いとなる筈でございました。 ところが運命の悪戯とでも申しますか、数日して再び晴子の姿を見つけたのでございます。 その時の彼女は、何やら神妙な面持ちで、橋の上から川を覗き込んでおりましてな。
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やめればいいのに馬鹿な私は 「どうかしたのですか?」 などと声をかけかけてしまいましてね。 本当に大馬鹿者でございますよ。あの時の振り返った晴子の瞳に心の臓が射抜かれたと言いますか、掴まれたと言いますか。 この女、憂いに揺れる瞳の奥底に蛇か魔といったものを住まわせている。そう私の中で警鐘が聞こえてもおりましたのに。 晴子は控え目に私を見つめ返してこう言ったのです。 「簪を落としてしまって…」
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その言葉の真偽は知りません。 私が愚考した事はといえば、如何にこの事態を利用して晴子の気を引くかという、その一点のみでしたから。 「それは大変お気の毒な事です」 同情を慎ましく滲ませながら、垂れ落ちた黒髪を眺め遣る私の下卑た胸の内を、晴子は直ぐ様に見抜いたと思われます。 「よければ代わりの品でも」 そう申し出た私に、零れるように微笑んだ口元には既に緋々とした女の魔性が宿っておりました。
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「ははあ、そうでしたかそうでしたか。道具屋の丁稚、あれは気をつけなさいよ旦那、軽口の坊と女将さんに叱られる噂好きでしてね。あの坊主が、旦那が買うた簪がどうのと噂してやしたよぉ。」 合点がいった車引は何度も頷いた。 しかしまぁ、可哀想な坊よ。 あのような簪が店から出たものを、口にするなと言われて黙っていられようか。 嫁入り用の絢爛豪華な簪を除いて、あれはあの店で最も高価な品だった。
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それからどうしたって? ご想像の通り。簪だけに留まるはずもなく、帯、着物、紅、そして櫛。それも金銀珊瑚に鼈甲と、私はすっかり晴子に入れあげてしまいました。 道具屋の丁稚も車引きも、今はもう何も言いやしません。 そして私がすっからかんになったと見るや、晴子は憂いを帯びた顔で縋り付いてきました。 持ちかけられた心中話。本当は晴子に死ぬ気など微塵もないと知っているのに、私は真の大馬鹿者でございます。
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お願いですと語る晴子に、断ることなど出来ませんでしょう。私は頷きました。私は、また来世でも晴子に出会えたらなんて願いを、神様に祈りながらも心中したのでありました。晴子の代わりに、彼女に与えた簪と共に。 目を開けば怯えた様子の晴子が。どうしたのかと問いかければ、彼女は泣きながら答えるのです。「か、簪を落としてしまったのです」と。私は新しい簪を買い与えてやることにしました。紅色の、綺麗な簪を。
- 完 -