椿女

ある冬の日、出先で見た光景が忘れられない。それは、くだらない人生を送って来た僕の記憶する限りで、一番美しくて、悲しくて、切ないものだと、僕は思っている。 これが、俗に言う記憶補正なのかも知れないが。 その日は滅多に雪が降らない地域のここにも雪が降り、咲き誇ったと思ったら直ぐに首を落とした椿が、残業明けの目に紅く映っていた。 眠気に侵された脳は正常に動いてくれず、気が付いたら帰り道を見失っていた。

はさみ

13年前

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ここはどこだ?車から降りて、まわりを確認することにした。 辺りは一面雪に覆われているのか、まっしろで何も見えない。建物も、人も、何もない。 遭難してしまったのか? 僕はとりあえず車に戻ることにした。 何も目印になるものがないので、自分の方向感覚だけを頼りに雪を踏みしめて行く。

no name

13年前

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もし、と声をかけられて、はっとしたように振り返った。 萌葱色の着物を着た痩躯の女が雪の降り積もった木々の合間から姿を現し、いやに静かな瞳でこちらを見ていた。 色素の薄い狐色の髪が頬に沿うように流れ、濡れたような漆黒の瞳が覗いている。 狐狸妖怪の類ではないかと思わず疑う程、浮世離れした女だった。 「道に迷われたのですか?」 返答に窮し、無言で相手を見つめる。

ムラサキ

13年前

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えぇ、迷ってしまいました。 そう答えたら彼女は道を教えてくれるのだろうか。 美女についていくと家に案内され、緊張を解くと形相を変えた女に喰われる。幼い頃に読んだ昔話の一節が頭をよぎる。 「……椿、を」 先ほど見た紅の花を思いだす。 「椿を探しにきた、んです」 僕がそう言うと、女は潤んだ瞳をさらに大きくさせ艶のある唇を薄く開いた後、ゆっくり静かに微笑んだ。

13年前

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「ならば、こちらへ」 すっと差し出されたしなやかな白い細腕が手招く。頭の中では躊躇いがあったが、強力な磁石に吸い寄せられるように足は一歩を踏み出していた。暗澹たる中で一筋の光を求めるように、先を歩く女の後背をひたすら追いかける。 どれくらい歩いただろうか。 白い視界に一軒の家が浮かび上がってきた。古い茅葺きの屋根だ。降って湧いたかと思われるほど、突然それは現れた。 「裏の庭に椿がございます」

lalalacco

12年前

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ここから裏庭は見えなかった。椿が本当にあるかどうかは分からない。そして裏庭に行くには家の中を通らねばならないという。 緊張が走る。このまま家に入っても大丈夫なのだろうか。幼い頃に恐怖を覚えて記憶にしまったあの昔話の美女の絵が何故か鮮明に思い出された。 「どうぞ中へ。外は冷えます。お茶をお出ししますよ」 緩やかな物言いに、まるで何かに取り付かれたように、女の後ろをただついていった。

ハイリ

12年前

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しぃん、静まりかえった空気の中に、このまま引き込まれる様な錯覚が、何故か心地よく感じている自分に驚いていた。 「どうぞ、そちらに」女は、朱色の座布団を差し出して、「綺麗な色でしょう?」と誇らしげに言った。よく見ると、本当に綺麗な色をしている。そう女の頬の色と同じだ。 「何もないですけど、、」そう言って、真っ白な和菓子と抹茶が出された。大丈夫だろうか?「毒なんか入ってないですから」女は静かに言った。

pinkrose

12年前

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そこでようやく、今までの記憶がリフレインした。 [あぁ、そうだ 思い出した] 忘れていた目的に何か鋭く突き刺すような感覚を覚えた。 「す、すんませんが、椿を見せていただけませんか?」 にこやかな笑顔にほんの一瞬、影が刺したかに思ったものの、彼女は相変わらずの微笑みのままゆっくりと窓に歩いて行った。 「ささ、こちらでごさいます。 遅れまして申し訳ありませんでした。」 だが、そこにあったものは…

Air

12年前

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横たえる一人の幼女だった。 一つの衣を身にまとい、地面に突っ伏す顔の目は永遠に開かない。 毒々しいまでに色づく着物は、薄闇の中で怪しげに光っていた。 「こちらが裏庭の椿になります」 ニイと笑った女の笑みが脳裏に突き刺さる。 死んだような目と、無理やりあげられた口角が女の哀れを助長した。 椿。 盛りを境にして、首を落とすように、また一枚、花が落ちる。

aoto

12年前

- 完 -