父が死んだ。 そう言われても僕はさして驚きもせず、悲しみもせず、ただ頭の中が空っぽになった。 人は、驚くほどの衝撃を前にすると、冷静になるものだと知った。ただの現実逃避かもしれないけれど。 とりあえず、ガラスのコップに氷と麦茶を入れ、火をつけた蚊取り線香といっしょに縁側に運んだ。 それから、蝉の声を永遠と聞き流し、麦茶には口もつけずに。 何もせず、何も考えず。 ただひたすらに呆然としていた。
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夕暮れの空が部屋の中を照らし、橙色に染まる。僕は後ろに伸びた自身の影をぼんやりと見下ろした。 カラン、と崩れる音。 溶けて水滴を幾つも付けたコップを、手に取る。無意識の内に、その冷たい感触を唇で味わってた。喉が欲していたように、全て、飲み尽くした。 昼間とは打って変わって、ヒグラシの悲壮な音が聞こえる。 そうしてから。 やっと。 父に憧れていたのだ、と。 思った。
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空のコップは、いまの心境そのものだった。 水滴は涙。 でも僕は泣けない。 煙が目にしみようとも、涙が出ない。 体のなかの水分がなくなったかのような。 悲しい感情を通り越して。 煙は夜の闇に白い筋をつくる。 青空にも白い筋を作った、あの父の亡骸の煙のようで、蚊取り線香を踏み潰す。
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踏み潰した香取り線香から、白くなった灰が舞った。 父の骨は、母と二人で壺に収めた。 あんなに大きかった父が、ものの数時間で骨と、ただの灰になった。 人の骨を見たのは初めてだったのに、恐怖も、父が死んだという実感もなにもわかなかった。ただ、人はこんな小さな壺に収まってしまうのかと、そんな事を考えていた。 頬を撫でるように風が渡り、小さく風鈴を揺らす。 呼ばれたような気になって、仏壇の父を顧みた。
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よく父は仏壇の前で手を合わせていた。 母を早くに亡くしてから父はあまり笑わなくなった。そして、泣かなくななった。 でも、僕は1度だけ見たことがある。 僕が二十歳になり、初めて父と酒を飲んだ夜。酔って寝ていた時、線香の匂いで目が覚めた。仏壇を見ると父が泣きながら笑っていた。 そして、そんな父が母と並んで位牌となっている。父は自慢したいのだろうか。 その時に僕は父が死んで初めて泣いて、笑った。
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涙は両目から溢れ続けた。栓が壊れてしまった水道の蛇口のように。 器用だった父は、壊れた水道の蛇口なんて、業者を呼ぶことなく自分でさっさと修理していた。父に教わって、僕もパッキン交換くらいなら自分でできるようになった。 涙の止め方も父に教わっておくべきだっただろうか。 ようやく涙が渇いた頃には、すっかり陽も落ちて、蝉の鳴き声も止んでいた。 無性に喉が渇き、蛇口を全開にして、空のコップに水を注いだ。
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また水を飲み干すと、背後から声がかけられた。 「大吾さん、夕飯の用意ができました」 それは父の後妻ーー静恵さんだった。 父の葬儀の喪主として動いていた僕を気遣う彼女は優しい女性であった。こうして、元妻の母と父の写真を並べてくれる。懐の深い人だ。 「今ね、思い出してたんです」 だからだろうか。心情を吐露したくなったのは。 「父の火葬が終わって遺灰を見た時のこと…。人って、あんな風になるんですね」
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静恵さんは遠い水平線を眺めるように、父の遺影の向こうに目を向けた。 「大吾さん、私思うんです。人はただそこにあることがふさわしい場所を求め続けて生きているのだと。どこにも陰りはなく、時にはかたちを変え、それでもなにも変わらず。責めることも責められることもない静かな場所を」 「まるで灰のように」 「そう、灰のように」 「静恵さん、父はあなたとの穏やかな生活を気に入っていました。とても」
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静恵さんは静かに微笑み、「私もですよ」と言った。 「私もあの人と暮らせて幸せでした。そしてこれからも、きっと幸せです。だって大吾さんがいるから」 そこで僕ははっと気がついた。 僕らは敬語で話し、「さん」をつけて呼び合う。だって他人だから。 それでも静恵さんはいつも僕のそばにいて、寄り添ってくれていた。これからもそうなるだろう。だって家族なのだから。 そんな家族を父は作った。 そんな父に僕は憧れた。
- 完 -