その点トッポってすげえよな。最後までチョコたっぷりだもん。
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しかし、最後までたっぷりでは美しくない。 例を挙げてみよう。ミロのヴィーナスだ。彼女は腕がない。それなのに、美しい。 これは見た者が、腕のあるヴィーナスを思い浮かべ様々な想像を出来るからである。 つまり、不完全な者が美しいのである。と私は考える。 ゆえに、トッポは最後までチョコたっぷりで無くても良いのだ。
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大量に生産されれば価値がさがる。 もし、ゴッホが描いた画風が、当時の主流ならば、ここまで脚光は浴びなかった。 このことから、希少価値が重要だというのは火を見るよりも明らかだ。 ところが、トッポは箱を開ければ数多くの本数が入っている。 しかし、上記の理論から、トッポの中身は一箱に一本が理想なのだ。 不完全さを、更に演出するために、稀に砕けている物を入れてもいいだろう。
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「想像的余白はこの際問題ではないんだ」 画家と彫刻家の隣からランナーが口を挟んだ。 君らの言う通り、芸術なら余白の美は意味深いものになる。が、贔屓目に見ても、トッポは御菓子であることを誇りにしていた。 マラソンも然り。最後まで完走しなければ、タイムはない。途中リタイアするマラソンのどこが美しい? 御菓子は御菓子を全うすれば良い。最後までチョコたっぷりであることの努力が人類を幸福に導くのだから。
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チョコが最後までない。これはどの御菓子でもよくあることだ。消費者もさほどこれには深く考えたことはなだろう。 が、しかしこれを製造側が強く主張することで他のチョコを使っている御菓子と差をつける。この「チョコが最後まである」と言うワンフレーズで消費者を惹きつける。これによってトッポは御菓子としての役割を全うするのだ。
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しかし、このような見方もあるだろう。 最後までチョコたっぷり。その売り文句に惹きつけられて購入し、パッケージを開けてチョコが最後まであることを確認し、満足する。そしてそれは一本ずつーーときには数本、または全てまとめてーー口に運ばれる。 軽快な食感と深い甘み。どこか懐かしいその味わい。 ここまでは良いのだ。 だが、飲み込む瞬間、最後までチョコがたっぷりだった、と改めて実感することなどあるだろうか?
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それが、ある みなさんは、こんな経験はないだろうか。例えばカレーパンを買い、食を進めるも全然カレーがでてこず「詐欺や」と思ったことを。これはカレーパンの構成要件をカレー+パンと認識しているからだ ではトッポについて同様の見地から分析してみる。トッポを食し「詐欺や」と思うことがあるだろうか?私はない。つまり何も感じず食せることが、トッポにチョコが詰まっている事を未必に実感させている証なのである
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何でダイエットの話からここまで飛んじゃうかな。佐奈、里江、智子は、同時に笑った。 チョコが高カロリーなら、準チョコレートという菓子で代用すればいい。いや、食べた分運動した方が健康的だろう。 チョコレートなら、階段を6歩だ。里江が言い出した。パイナップルも同じだけど、と佐奈が付け加える。グリコは3歩だから痩せる効果が低くない?と智子が言うとすかさず佐奈が、グリコは300メートルよ!と笑った。
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結論。 トッポは、最後までチョコたっぷりだ。 なぜならば、トッポは、すげえからである。
- 完 -