彼のため。 私は勉強する。 彼のため。 私は努力する。 彼のため。 私は早起きをする。 彼のため。 私は夜遅くまで起きておく。 私がやることは全部、 彼のためなんだ。
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そんな私に彼は、いい子だね、と言ってくれる。 君は僕だけのもの。 とてもかわいいよ。 夜遅くに帰ってくる彼は、まるで人形でも撫でるように、そっと私の頭を撫でる。 僕のために起きていてくれたのかい。 僕を待っていてくれたのかい。 もちろんよ、と私は言う。 小さな部屋に声が響く。 私は、彼のためだけに生きている。
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いい子だね。僕だけのもの。かわいいよ。 その言葉に私は微笑みを返す。 私は、彼のためだけに生きている。自分のために生きることを考えられない。 彼が大事だから──否。 彼を愛しているから──否。 彼が愛してくれるから──否。 彼と出会ってから、私は彼のために頑張るのが当たり前になっていた。それで彼の笑顔が保たれ、私の頭を撫でる。その手は私を撫でるため。殴るためじゃない。 私は彼のために生きる。
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彼が好き。 クラスの子が彼氏の愚痴を言っているのを聞いた。信じられない。 彼が好き。 今日も彼に褒められた。今日もありがとう。今日もご苦労様。それは彼が私に確かに言ったもの。私だけに言ったもの。 彼が好きよ。大好きよ。 私は彼に今日も伝える。彼はそれにゆっくりと微笑む。 そして私は手を動かす。 彼に愛されるため。彼の愛に答えるため。 呼吸や、全ては彼のため。
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小さな部屋で今日も彼を待っている。 暮らしに必要なものは全て彼が買ってくる。 あの日学校を辞めてから彼とずっと一緒。 外の世界は危ないからここにいてと彼は言う。だから私は家を出ない。そうすれば彼はまた私を撫でてくれるの。 思い立って手料理を作ることにした。包丁に触るのはいつ以来だろう。彼の喜ぶ顔が見たかった。でも、料理を目にした彼は喜ばなかった。 料理なんて危ないこともうしないで。
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はい、と、私は答えた。 よし、いいこだね。彼は私の頭を撫でた。 でも。 彼は喜んではくれなかった。 私のすることだなんて、全然、嬉しくないんだ。 私は、役立たずなんだ。 ぼうっと、私が作った料理を見る。 あれ、なんだか、ぼやけて見える。 彼が戻って来て、手を合わせた。 そして、いただきますと、いった。 彼が、私の料理を食べてくれた。 もうしないで、と言われてしまったけれど。
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彼を待つ部屋の中。 思い立っては彼のために何かをしたけど どれも喜んではもらえなかった。 お礼は言ってくれるものの、 最後には、あぶないからやめて、と。 君がそばにいるだけでいいんだ、と。 そのうち私は何もしなくなった。 彼が帰ってくるのを待つだけの人形。 何も感じなくなって夜も声をあげずに ただ彼の触れる感触だけ確かめた。 いつも通り頭を撫でる彼の目の奥が ふと退屈そうな色をしていた。
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どうしよう。 なんで、彼に退屈だと思われたら、私はもう、意味のない人間…… そうだ。私が、こんな人形みたいになったから、彼は… 私、生きているのよ… 次の日、帰宅した彼に、カッターで切りつけた手首を見せた。血が垂れた床に、彼は膝が崩れるように座り込んだ。 ごめん、もう、別れよう、と彼は言った。 私は、涙も出ないほど苦しくて、苦しくて、その時目に入ってしまったのが、手首を切ったカッターだった。
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私はカッターを手に取り、彼の心臓を、刺した。 刺して、刺して、刺して、刺した。 そうして、彼が動かなくなったのを見届けてから、自分の首に、刃を滑らした。 遠のく意識の中、血が流れ出るのがわかる。 私の身体から、彼の身体から。 そうして、2つの朱は混じり合っていく。 それを見て、思わず笑みがこぼれた。 私が貴方だけのものならば。 貴方も、私だけのものでしょう? これで私達、ずっと一緒ね。
- 完 -