今日も夢のない喫茶店で

「夢の無い喫茶店」 落ち着いた雰囲気の古風な喫茶店だ。 コーヒーを頼むとマスターが一つ質問に答えるサービスをしている。 カウンター席に座った老人は、コーヒーを頼んだ。 マスターがサービスの事を説明すると、老人はため息をつき言った。 「妻は私を恨んでいただろうか」 「はい、貴方のせいで死んだと思っています」 「まあ仕方ないな」 老人はコーヒーを飲み干し、ため息を一つついて帰った。

木箱

11年前

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夢のない喫茶店なのに、客足は途絶えない。 夢はなくとも肯定を必要とする人々は、この街に溢れているらしい。 彼女はライター。雑誌の取材でこの店を訪れた。 変哲のないメニュー。ただ、コーヒーはふんわりとまろやかで、後を引く。 彼女は草稿のメモをひとしきり書き終えると、店の写真を撮る。 取材の終わり際、彼女は取材では聞けなかったことを口にした。 「あの、私、…今のままで、いいと思いますか?」

11年前

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「はい。今のままでいいと思いますよ」 マスターは彼女に答えた。 「あの、ですね」 質問は一度までです。マスターの簡素な態度に、彼女はおとなしく店を後にした。 雑誌のライターの仕事が嫌なわけではなかった。物書きをする仕事自体は彼女の願うところだったし、求められる記事を正確に書くことが彼女にはできた。彼女の書く文章が好きだ、という希有な固定ファンも密かにいると、噂で聞いている。

aoto

11年前

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それでも迷いがあるのは小説家になる夢を捨てきれていないからだ。今の仕事を続けている限り小説を書く余裕などない。 翌日、取材原稿を書き上げてから、件の喫茶店を訪れた。まろやかなコーヒーを啜りながら、今日の質問を考える。 カップが空になり、マスターに問いかけた。 「私、今のままじゃ駄目ですよね?」 「はい、全然駄目ですね」 「え、でも昨日は今のままでいいって…」 二度目の質問は無視された。

hayayacco

11年前

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また翌日、ゲラを手に喫茶店に訪れた。 舌が慣れ親しんだコーヒーは、今日もまろやかで香りも良かった。 コーヒーを飲み終えるまでに考えていた質問をマスターに尋ねてみた。 「私、夢を追ってみてもいいでしょうか?」 「追っていいんです」 マスターの迷いのない言葉に、私は背中を押された気分になった。 「マスター、ありがとうございました。私、夢を追ってみようと思います」

anpontan

11年前

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笑顔で出て行く小説家の卵を横目に見ていたのは、恰幅のいい常連の男性だった。彼は普段コーヒーを頼まない。マスターと客とのやりとりにうんざりしていたからだ。 カランコロン。愉快そうに鳴ったドアベルを聞いて、彼はコーヒーを注文した。 淹れたてのコーヒー。それを一気に飲み干してから、男性は尋ねた。 「マスター、一つ聞くけどよ。どうせいつもデタラメばっか言ってるんだろ?」 「はい。おっしゃる通りです」

mani

11年前

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喫茶店の空気が一瞬震えた後、ぴしと薄氷が張った。 「そんなことだろうと思ったよ」 男性はにたにたと満足気に笑いながら、代金を支払って出て行った。 「コーヒーを」 一通りの流れを見ていた若い男性だった。常連だが、いつもは他人のやり取りを聞いて楽しむだけだ。 「どうして、あのような返答を?」 さすが人のやり取りを聞いてきただけあり、是か否の質問では欲する答えに辿り着かないとを分かっていたのだ。

のんのん

11年前

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洗ったカップをキュキュっと磨きながら、マスターは微笑んだ。 「是か否かなら、人は肯定が欲しいでしょうから」 短い回答だった。だが、若い常連客にとっては充分な回答だった。 マスターは全てを受け入れる。 この年代のオトナなら、自分の経験や知識を活かそうと相手に対してウンチクを垂れそうなものだが。 一気にコーヒーを飲み干し、若い常連客は思った。こんな無粋な質問をした僕の方こそ、夢が無いな、と──

11年前

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ここは夢のない喫茶店だ。別にここでなくても夢のない場所は溢れている。それでもこの場所でコーヒーを飲み干す人は後を絶たない。聞いてほしいけど誰にも言えない他人事の自問自答が積もりに積もって日記のようだ。救われたい、救ってくれないと思いながら訪れる様は教会のようだ。夢は寝てる時に見ろと怒鳴る人も、夢を現実にしたいと不安そうな人も、同じものを求めている。 是か否かなら、 どうか一杯のコーヒーを。

mochi

11年前

- 完 -