鈴蘭の心残り

香水職人の彼らしい、とジルは思った。アルフィーは間違いなく英国一の香水職人だ。彼は愛の言葉を囁く代わりに、愛の香りを恋人に贈る。

真珠色の小瓶に鼻を近ずけ、すんと嗅いだ。この香りをジルは知っていた。アルフィーと初めて出会った場所、あの咲き乱れた鈴蘭の香りだ。

Ringa
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ジルは苦笑してしまった。招待状の返事の代わりに、こんなもの寄越すなんて…結局、欠席ってことかしら。

飾り気のないシンプルな小瓶は、以前恋人であったジルに向けて幾度となくアルフィーが贈ってきたものと同じ形だった。
手首に吹きかけると、鈴蘭の香りがやさしく広がる。
ウェディングドレスみたいな白色の花…まったくアルもロマンチストね。

ふと、アルの言葉が蘇る。
『本物の鈴蘭から香りを採るのは無理だ』

のんのん
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偽物ってことって尋ねたら「花から香りを抽出しようとすると、鈴蘭本来の香りが失われるんだ」なんてアルフィーは得意げに語っていたっけ。
私はアルフィーから贈られた香水を手にとって眺めた。
これは鈴蘭の香りの代替品である。二人が出会った、咲き誇る鈴蘭の場所の香りを再現することは不可能なのだ。
それでも彼は調合を続けた。鈴蘭の香水を。私に贈るために。
アルフィーに招待状を贈ったことを私は後悔し始めていた。

aoto'
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最後にもう一度会っておきたくて送ってしまったけれど、今更よね。
元彼女の結婚式なんて。

手首から漂う香りに目を閉じる。
彼は鈴蘭の花言葉を知っていたかしら。純粋に香りだけを愛する人だったけれど。

Retune of happiness

彼はきっと、祝ってくれている。それだけで良しとしなくては。
本当は、どうしようもなく別れたあの日から忘れたものとして過ごすべきだったのに。

ふきのとう
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「香りは、他の感覚よりも記憶との結びつきが強い」
いつだったか、アルフィーが口にした言葉だ。それは単なる香水職人のプライドというだけでなく、科学的にも証明されている話らしい。

アルの調合した鈴蘭の香りに包まれている今、ジルはこれまでにない程鮮明に、アルと過ごした日々のことを思い出す。
初めて出会った鈴蘭畑から始まり、恋人になった日のことや数々の逢瀬、そして…思い描く未来の相違から別れたあの日。

香白梅
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アルと過ごした日々は穏やかで、けれどわくわくする時間だった。アルが話すのは香水のことばかりだったけれど、ジルにはどれも面白く聞こえた。

「元気で」
別れ際、アルはそれだけしか口にしなかった。二人の間には確かに、埋められない大きな溝があった。もう今更何を口にしても無意味だと、アルは考えたのだろう。ジルもそう思っていたから、黙って微笑んだ。
それだけだった。

結婚式に、アルの姿はなかった。

うみの みおり
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「綺麗だよジル」
純白のドレスに身を包まれた私に、ジョーは目を細めた。
「…彼は?」
その問いに小さくかぶりを振る。
「そうか。でも、今日は初めての香りだね。よく似合っているよ」

アルと別れた後は滅茶苦茶だった。寂しくて、悲しくて。幸せな時間が思い出に変わっていくことに耐えきれなくなったある日、私は鏡台に並ぶ小瓶の一つを床に叩きつけた。
二つ目の小瓶を振り上げた私の腕を止めたのが、ジョーだった。

sakurakumo
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ジョーは私に優しい時間をくれた。
アルとのような恋ではなかったけれど、確かな信頼と深い安らぎをくれた。だから私は結婚を決意するこができた。

慈しみと愛情を持って未来を歩くはずなのに、どうして香りは私をあの日々に巻き戻してしまうのか。
ヴァージンロードでの私の涙の理由を、ジョーは喜びと勘違いしただろう。

誓いますか?
十字架の前で問いかけられ、ヴェールが揺れる。

ふと、濃い鈴蘭の香が過った。

noname
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もうこれは仕様がない。どんなに昔を望んだってあの頃は戻ってこないんだから。
半ば自分を洗脳させるかの様に心の中で呟いた。
「誓います。」
諦めの言葉としてジョーへの愛を誓う前までせめて少しでも長く愛の絶対のない時間を求めて、ゆっくりと言った。
映画で見たドラマティックなアルとの再会などある筈もなく、現実は冷たく思い出を思い出足らしめるのだった。
せめてもっと愛を伝えていたら?
これが最後の心残り。

右野 亜緒
- 完 -

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