昨晩の雨の残りが、木漏れ日とともに落ちる。朝日がいたるところに閉じ込められて、辺りを眩く染めていた。 春の初め、その色香で町を魅了した桜の花は全てとうに散り、沿道を埋めた花びらもすべてどこか知らぬところへ行ってしまった。 もう春も終わる。町はその気配を敏感に嗅ぎ分けている。 沿道を、女の子が歩いていた。春色の、ワンピースと長靴と傘。まだ人気の少ない道を傘をずるずる引きずって、歩いていた。
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おはようございます。素敵なお嬢さん。 生温く蒸した朝靄をついと割って現れたのは燕尾服も鮮やかな紳士だった。女の子はゆっくりと顔を上げ、悲しげに呟いた。 春が行ってしまうのです。わたしは、寂しい。 濃くなりすぎた緑の匂いをゆっくりと吐き出して、ふむ、と紳士は首を傾げた。 それなら己の屋敷においでなさい。春があります。桜もあります。菫もあります。蝶も飛んでおりますよ。如何でしょう、可愛いお嬢さん。
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女の子は紳士の言葉に一瞬だけ目を輝かせた。しかしすぐに悲しげな表情に変わる。 紳士は腕を組み、女の子の足元を見つめる。女の子は、紳士の館に興味はあるようだ。何が不満なのだろうかと、紳士は辺りをぐるりと見回し、女の子に視線を戻す。 女の子のワンピースの裾に雨上がりのせいで泥がはねているのを見つけた。 可愛いお嬢さん、大丈夫ですよ。 紳士が微笑んだ瞬間、女の子のワンピースの汚れは消えたのだった。
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ほぉら!これでお洋服も綺麗になりました。これで準備は整いましたね。 紳士はその場で話し続ける。 ようこそ、可愛いお嬢さん。己の屋敷へようこそ。 紳士は跪くと同時に女の子の手を取った。 目をキラキラさせ景色を見渡していた女の子が、不意に口を開いた。 この不思議な世界で不思議な事をするあなたはだぁれ? 私はお嬢さんの言った通り、この世界で不思議な事をする不安定で不思議な存在でございます。
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そんなことはどうでもいいのです。さあ、どうぞ。早く入りましょう。 そう言って紳士は屋敷の戸を開ける。 永遠の……春の館へ。 そこには青々とした草花が広がり、桃色に染まった木が一本、桜の花びらを散らしていた。 女の子はわぁ…と小さな声をもらし、館へ足を踏み入れた。青い草の上で、ふわりとワンピースを膨らませながら、くるくると回る。 もう春が終わることはないのね! そうですよ。永遠に。
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永遠を強調するのね。 少女が首を傾げるのと同時に館の扉は口を閉じた。気づくはずもない。少女は紳士を見ていたのだから。 お嬢さんがここにいる限り、永遠に春だということですよ。もう傘も必要ありません。これは、その証拠です。 そう告げて紳士は傘を持っていた手を優しく撫ぜる。 次の瞬間、細い指先に、タンポポを模した可憐な指輪がはまっていた。 永遠の春も素敵だわ。 少女は傘も忘れて桜へ近づいた。
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掌を掲げると、薄桃色の花弁が控えめに触れては通り過ぎてゆく。 もういっそ此処で暮らせたらどんなに幸せかしら。 その事で貴女にお願いがあるのです。 少女の冗談めかした呟きに、紳士は突然神妙な顔をする。 本当は、この屋敷には主がいません。此処や私の存在が不安定なのはそのせいです。お嬢さん、どうか貴女が主になって頂けませんか。そうすれば此処の歪みも直るでしょう。
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返事をためらっている少女に、紳士はなおも甘い毒を吐く。 ねえ、お嬢さん。永遠ってとっても素敵だと思いませんか。もう二度と春が終わってしまうと嘆かなくても良いのです。春の雨は優しいから花が散ってしまうこともない。色とりどりの花はいつまでも咲き続け、貴女の周りを彩るでしょう。 風が吹いて、花びらが舞い上がった。少女の目に一際黄色の花が映ったその時。 わたし、ここにいるわ! ずっとここにすむ!
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ねえこの屋敷に夏の館はあるのかしら。秋は?冬は?いつでも好きな季節に行けるのなら、わたし、主になるわ! おやお嬢さんそれはいけません。貴女は春の館の主になるのですから。他所へ行かれては春が揺らぎます。 …それならわたしは外で四季を感じる方がいい。 少女が俯き、ワンピースの裾にあった泥を懐かしく思い握った時。 タンポポの指輪が口を開いて少女を飲み込んだ。強い風が少女だった綿毛を吹き飛ばす。
- 完 -