彼女はクスッと笑って、僕の心を見透かすように言った。 「私のこと好きでしょ」 僕はその言葉を言われたからなのか、彼女の柔らかい唇が触れたからなのかわからなかったが、心臓がはやくなるのがわかった。 そんな状況を知ってか知らずか、今度は僕の唇に彼女の柔らかい唇が重なる… 僕の思考はすでに停止し、本能のままに彼女を求めていく。 しかし、これからの盛り上がりを壊すかのように彼女は急にこう言った。
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「死んで、くれる?」 冷たい金属音と共に彼女が取り出したのは、銃。そして、ゆっくりと額に突きつけられる。 「どうして…」 僕は激しく狼狽した。彼女がそれを持っている理由を聞く余裕など無い。 気がつけば彼女の瞳には光が宿っておらず、虚ろだ。 「僕は君の事が好きだ。そんな事とっくに分かってるんだろ…?」 尚も額に向けられる銃口。 「そうよ。だからこそ貴方には死んで欲しいの。」
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「どうして…」 それ以外の言葉が出てこない。 突きつけられた銃は、いろんな意味で僕の終わりを告げている。 「貴方はこの国の重要な機関で働いている。私は知らなかった。貴方が普通のサラリーマンなら、こんなことをしなくても」 彼女の瞳に絶望を感じた。一体どういうことなのか。 「どうして君は」 君は光を失った目が潤んでいるのに気がついた僕は目を瞑る。 「殺ればいい。君に殺されるなら、それが君の仕事なら」
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「そう」 彼女は躊躇無く引き金を引く。 さようなら、と彼女の柔らかい唇が動いた。 直後銃声が、響いた。 余韻が残る。 この音には慣れた筈だったが、目の前のモノには、やはり馴れない。頭を貫かれた青年が倒れている。さすがに、生きてはいないだろう。触れることはしなかった。 「終わったか?」 「当たり前よ」 仲間の男が現れた。残りの始末に来たのだろう。 「では、その涙はなんだ?」 「えっ...」
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頬をとめどなく涙が零れていた。 「こ、これは…」 自分でもわからなかった。ただ、目の前で次第に冷たくなっていく彼の唇の温もりだけは、今も、私の唇に重なっている。 「これは、そう。嬉し涙よ」嘘だった。 「最後の仕事だもの。これで私は自由の身。さあ!私の新しい名前と戸籍、それから経歴と財産を頂戴!」私は男に詰め寄った。 …昔、私は些細な事から大切な人の命を奪ってしまった。その罪を消す代償、それが
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ある人の命令をなんでも聞くこと。 拒絶も失敗も許されない。 たった一度だけのチャンス。 「君は誰のもの?」 そう問いかけられる度に吐き気がした。へらへらと緩めている口元を今すぐに殴りたかった。 「……私は…のものです」 目標人物に近づいて、貶めて、必要ならば殺して。感情なんて持つだけ無駄だった。 それなのに。 「馬鹿な男」 倒れた青年を見て吐き捨てるように呟いた。 本当に馬鹿な……愛しい人。
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彼と会ったのは、気晴らしに出掛けたバーでだった。その日彼らの貸切に近い状況で彼らに引っ張られるようにいつもは落ち着いた雰囲気だろう場所が陽気になっていた。私を除いて。 それを見兼ねたのか声を掛けて来たのが彼だ。気になってね。とその後会った時に彼がぽつりと言った。 彼は詮索せず連絡すると時間を作って会いにきてくれた… 走る車の中窓に映る自分の顔に気が付く。 もう泣いてはいない。 唇に指先が触れる。
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ただ、彼の温もりを確かめたかっただけだった。でも唇は、もう冷めてしまっていた。全てが、冷めてしまっていた。 車を降りてから通された部屋には、あの人が待っていた。彼は、私を見るなり言った。 「何故彼を愛した」 厳しい口調だった。部屋の空気は、怒りに満ちていた。 彼はスクッと立ち上がり、私を求めてきた …が。 私は、全てを終わらせようと思った。 「どうして」って? あなたは、まだいたのね。
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反吐が出そうな醜い顔に彼の最期の表情を重ねた。 ──どうしてあんな瞳で私を見たのかしら。 目の前の男のような恐怖と絶望ではなく、ただ穏やかな決意だけを宿らせていた。 どうしてそんなことができたの? あれだけ私を苦しめた男は冷たい鉛弾ひとつであっけなく床に転がった。 銃は捨てた。全てが冷めきった私には本当にもう何もいらなかったから。 きっと私は生涯あの目の中に、愛されたという幻想だけを探すのだ。
- 完 -