僕は、よく悪夢を視る。 暗い街、規則正しく左右に横一列に並らぶ摩天楼、曇った空、降る赤い矢、形を失った矢が作る湖、追ってくる足音。 今も暗い赤く染まった街を足音から逃げるように走っている。 あれはヤバイ、、捕まったら二度と覚めない気がする。 逃げないと
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夢の中でも動悸はするものだ、と感じた。 走って、走って逃げたのは街の喫茶店の中だった。 途中、裏道が見えたが、あれはトラップだろう。きっと、まずいことになるに違いない。 現実でも、まずは人混みに隠れるほうが安全である場合が多い。 夢の中で人を求める。 しかし、喫茶店はガラガラだった。 あれがやってくる。 次なる隠れ場所を見つけないと。
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建物の合間を縫うように街中を駆ける。 動悸は収まる気配が無いにも関わらず、不思議といくら走っても足が動かなくなるなんてことはなかった。 気づけばそこは見慣れてしまった不気味な街ではなく、ただの暗い夜の街。しかし空は重い緑色で、その中でも橙に輝く満月が一際異彩を放っている。 これはまだ夢の中なのか、それとも現実のことなのか。 呆然と空を見上げていた僕は、すぐ後ろまで迫っていた足音に気づけなかった。
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月が一瞬歪んだ。まるで水面に石を投げ込んだ様に、満月の表面はザワワと波打った。波紋は次第にとろみを帯び、ついにドロリとチーズの様に垂れ始め、僕の足元に広がった。 夢の中なのに、鼻の中に強い悪臭が強引に入り込み、僕は両手で必死に鼻を塞いだ。腐った魚か、腐った下水道か、膿んだ体液か、そんな悪臭だ。 融けた月が腐ったかと思ったが違う。 それは、ぴちゃり、ぴちゃりという足音とともに僕の背後から臭っていた。
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周囲の酸鼻、背後の恐怖に、堪らず僕は走りながら吐瀉した。消化し切っていない液化したゲル状のものが、びちゃびちゃと地面にはね、忽ち飛沫が足にかかる。 僕は自分の吐瀉物で、足を滑らせ肋骨をしたたか打ちながら、転んでしまった。 横腹が冷たい。染み込んで気持ち悪い。 目の前には、20本前後の歯が落ちていた。芯まで紅くなった僕の歯だった。 ちゃぷん、ちゃぷん。 背後から聞こえる音の変化。 それは、
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痙攣しながら影を広げ、僕の周囲を闇に変えた。 夢だ夢だ夢だ。口に溢れる血は紫に変色し、唇を滑らせ喉を枯れさせ、言葉は呻きにさえ成らない。 立ち上がれず、吸われる如く振り返る。 無残に打ち上げられた海藻の塊の様な巨物が、形を無くし色と化した月を背に、僕に迫る。 ざらざらと蠢くその隙間から、顔が見えた気がした。蛙の腹の様な脈透き立つ顔が。 …あいつだ。 僕はその顔を知っていた。
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僕を覆う影が、どろりと工業油のように融け落ちる。晩春の夜風みたいな生温かい温度が僕の歯を失った頬に触れる。混ざり合いながら僕の頬も輪郭を失う。 髪が落ちる、首が肩が腕が、泡のようになくなっていく。月も夜空も、こいつ僕も、それからよくわからない色々なものも一緒になって、キッチンの排水溝みたいに押し合いへし合いながら流れていく。 僕は崩れ落ちて行く影を見上げた。もう形のない口を開く。 母さん。
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母さんが笑った。 淀んだ濁流に飲み込まれて、境界線がわからなくなる。夢と現実と僕と母さんと。血と肉と影と月と。恐怖と疑念と哀切と、ほんの少しの慕情。 何故母さんは僕をこんな目に合わせるのだろう。悪臭の中、必死にもがきながら問う。 そこは辛いだろう、苦しいだろう。 大丈夫、もう終わりにしてあげる。 母さんの優しい声に絆されそうになる。でも、駄目だ。生きるために、僕は死に物狂いで溶けた手を伸ばす。
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息苦しさを覚えて飛び起きた。 手を見る。異常なし。歯も、ちゃんとくっついている。 なんだ、やっぱり唯の夢だったか。 ぴちゃん ぴちゃん 何処からか水が垂れる音がする。 キッチンに向かい、排水溝に詰まったソレをむずっと掴みとる。 「母さん、僕、怖い夢みちゃったよー…」
- 完 -