父の背中を...

あなたに私の命を少しでも分けてあげたい。 これまで苦労続きでやっと楽ができそうになってから病を得るなんて、人生は不平等だ。 私と並んで医師の説明を聞く父の横顔を見てそう思った。 「もう少しゆっくり話してもらえませんか」 早口で専門用語を交えながら説明する医師が腹立たしくて言わずにおれなかった。 「あなたにはお馴染みの言葉でも私達は初めて聞く言葉ばかりなんですから」 私は医師を睨んでいた。

Noel

10年前

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「…ではもう一回説明しますね 診断結果は心不全です 心不全とは心臓の栄養分や酸素を含んだ血液を全身に送り出すポンプのはたらきが低下して、全身が必要とする血液を十分に送り出すことができなくなった状態を心不全といいます。簡単にいうと心不全とは、心臓が弱った状態のことですね」 意味が分からない 病名も用語も、淡々と話す医者の態度も、意味が分からない お父さんに限って病気だなんてありえない

佐藤 咲

10年前

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医師の噛み砕いた説明に、私はやりようのない負の気持ちを抱えこみ、静かにそして無意識に自身のスカートを握り締める。隣で生唾を飲む音が聞こえ、突きつけられた宣告が現実味が帯び、掌は汗で濡れ始める。 「そうですか」 どこか他人事な父の言葉に拳をより強く握り締める。だが私と対照的に、その声には未だ温かさが残っていた。大らかで、いつも明るい父のその声が私は好きだが、その声が何故か怖く感じてしまった。

2mo

10年前

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父が異変に気付いたのは昨日の晩だった。夕飯を食べ終えた直後、腹の鈍痛と息苦しさを訴えたため、救急車を呼び、すぐに搬送された。そして、緊急の入院を要したので、父の唯一の家族である私も付き添い、説明を受けることになったのである。 医師は説明を終えたと判断したためか、流れ作業のように私たちに退室を促した。 「心配かけてすまんな」 退室のとき、父は私にこう呟いた。私はまだ、あの医師を睨んでいた。

starter

10年前

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「こら、そんな目をするんじゃないよ」 父は私を諫めると、私の顔をじっと見つめた。見透かされているような心地がして落ち着かなかった。 柔和な父の顔だった。しわが少し多いけれど、綺麗な目だけはずっと若々しく見えた。 私は震える唇を噛みしめるように頷いた。 "この人はいつもこうなんだ" 父よりも私が憤って、父よりも私の方が泣きそうで、私はいつも父に慰められる。父の方が私よりもずっと辛いはずなのに。

aoto

10年前

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受付で入院手続きを済ませ、父の着替えを取りに私は自宅へ帰った。 父と子、二人きりで暮らした家。父は私の為にがむしゃらに働いてくれた。その分、幼い頃から一人で留守番する事も多かったし、それを寂しいとは思わなかった ───はずなのに。 しん。としたこの家が今はとてつもなく恐ろしく感じた。 ひたひたと迫り来る静寂が、まるで父を私から奪ってしまう様な気さえする。 父のタンスの前で、私は泣き崩れた。

9年前

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病院に戻ると既に父は眠っていた。点滴や心電図が取り付けられた体が痛々しい。 父の手をそっと握ると、また涙が溢れた。入院は二週間。退院すれば元の生活に戻れるはず。なのに、つい別れの時を考えてしまう。 今流している涙は父への同情ではなく、父を失う悲しさですらなく、純粋な恐怖だ。独り残されるのが怖かった。 「おい、泣くなよ」 いつの間にか目を覚ましていた父に声を掛けられ、私は慌てて涙を拭った。

hayasuite

9年前

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「泣いたって現実が変わる訳じゃないだろう。お前はもっと強くなれ!」「正直に生きてるだけだよ。それが悪いの?」「大人は泣きたくても泣かないものだ。それが大人ってものだ」「わかった」言ったきり父は押し黙った。私もそれが嫌なものだとは思わなかったし、だからそのままでいた。 悲しいのか、悔しいのかわからない。 何も出来ない自分が歯痒いだけだ。 削り取られる父の命を見てるだけ。 策は無い、悲しいことに。

7年前

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病は確実に父の体を蝕み、あの医師から 「かなり厳しいです。覚悟をして下さい。」 と、母に言った。こんな、ドラマみたいな言葉を聞く日が来るとは。 覚悟を決める暇も無く、父は死んでしまった。 何にも無く、日々はすぎる。父は居なくても時は無条件に進む。 或る日、父のタンスを整理していると手紙がハラリと落ちてきた。そこには、一言だけ震える字で 「正直は、いいことだよ。」と、 なす術は無かった。

- 完 -