「はぁっ、はぁっ、なんなんだよ…っ」 私は住宅街を逃げ回っていた。背後を振り返る余裕もなく、街灯はあるものの薄暗い道をただひたすらに走っていた。 何から逃げてるかって? 言葉にするのも恐ろしい何か。 そう、頭に思い浮かべるのさえ拒否感を覚える何かだ。 だから靴紐が解けていつ転ぶかも分からないけど、今は逃げるしかない。 「くそっ、誰か…だれか…」 私は恐怖と戦いながら走り続けた。
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たす、たすけて! 息が上がって声にならなかった言葉は私の中に消えていった。足も限界だったようでついに力が抜けた。コンクリートの地面に膝を叩きつける。バランスが崩れ上半身も倒れこみむき出しになっていた手や腕に傷ができた。 もう立てない、走れない。でも逃げなきゃ。 なんで、私が逃げなくちゃいけないんだ。涙が溢れてくる。目の前の霞んだ視界を腕で拭った。 私は、裏切られたんだ。 あいつに。
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別に裏切られることを想定しなかったわけではなかった。人なんて所詮は薄情な生き物だし、笑顔を浮かべていても腹の中では何を考えてるかわからない。でも私は信じていたのだ。あいつなら大丈夫だと。あいつは心を許してもいい人物だと。 それが全ての間違いであり私の不幸の始まりでもあった。 こうしている間にも足音はどんどんこちらに近づいてくる。もう逃げるのは無理だ。 もはや私を支配しているものは恐怖心でしかない。
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「…ねぇ、逃げなくてもいいの?捕まえちゃうぞ?」 足音が止まり不意に背後から聞こえた声に背筋が凍りつきガチガチと歯が音を立てる。 語尾にハートがつきそうな程甘い声。でも何処か冷めていて。心臓が煩く音を立て今にも壊れてしまいそうだ。喉はカラカラなのに絶えず流れ落ちる冷や汗。 「ま、待って…落ち着いてよ…ね?」 私の口から零れ落ちた言葉と声は震え今にも消え入りそうな程小さかった。
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「なんでそんな顔するの?」 白々しさを含んだ疑問の声が耳に入った。 「っ!」 対抗にもならないが、負けじと相手の顔を見ようとするや否やその瞬間、 シュッ と、空気の裂かれる音と共に自分の頬から熱が広がるのを感じた。 体の感覚が恐怖で鈍っていたのか、或いはあまりの速さについていけなかったのか、自分はそれが頬を鉈で切られたと気づいたのは手で傷口を触って実際に確認してからだった。 「…っ…ぁぁ…」
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傷口が頭をしびれさせ、何も考えられないくらい思考をショートさせる。 逃げ続けてもすぐに追いつかれてしまう。 「ねえ、もう、もう、やめようよ、こんなこと」 哀願して私は訴える。張りつめた空気が続けざまに引き裂かれ、反対側の頬にも熱を感じた。 流れる血を手にとると、こぼれた涙で薄まった。 「そうだよね。裏切りなんて当然なんだよね。でも、私は信じていたんだよ」 殺される、と確信した。
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私の絶望を悟った女は、ふっと笑った。 その眼は大きく見開かれ、私を見ている。 「ふふ、ウフフ、フフフっ ねえ?ねえ?ねぇ!? もう逃げないの??もうオシマイ?? ウフ、何て顔、アンタさぁ、あたしに、裏切られたって、そう思ってる?? ねえ? ねえ!! アンタ!! あたしが裏切ったって、オメーさぁ!!思ってんだろぉっ!? 先に裏切ったンは、、オメーだろがよっ!!!」 女から笑みが消え、鉈が閃いた。
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がきん、と金属が擦り合う音。 「しっかりしてよねェ、リタ。おねーちゃんがいつも助けてあげられるワケないからねェ」 見開いていた目から涙が落ちる。 女の舌打ちが聞こえた。 「ルタ、あんた」 「ウチのリタに何用で? 織……いや神崎詩織」 彼女達が睨み合っていたのはほんの数秒。 「ルタ、織。睨み合うのは今度にして頂戴」 凛とした声が私の後ろから聴こえた。 その声の主は織の上司、紅 美羽だった。
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美羽は制止を促したかと思いきや、掌を返す。 「時間切れよ」 無慈悲な銃声と硝煙の匂い。織とルタの優劣など関係なく、二人は私の眼前で始末された。 「お遊びは不要なの織。ルタ、貴女の仲裁は規則違反」 制裁を下した美羽は、ごく事務的でいる。 「裏切りが導き出す行動心理は、この結果で報告を上げるわ」 一瞥もくれずそう宣言して、私に向けられた銃口。血飛沫に触れた靴紐から死の恐怖が染みて… 「ご苦労様、リタ」
- 完 -