顔を上げると、目の前にわたし自身が座っていた。 ドッペルゲンガーを見たものは早晩死ぬという。だが、その時のわたしにはそんな話を思い出す余裕はなく、目の前にいるもう一人のわたしも同様らしかった。 幸か不幸か、その場にはわたしたちだけしかいなかった。 わたしたちは、同じ人間が同時に存在していては周りの人間に無用の混乱を与えるだろう考え、お互いにある契約を交わした。
- 1 -
その契約とは、片方が出かける時は外での接触をさけるため、もう片方は自宅で待機するというものだ。 どうやら、ドッペルゲンガーはなんの変哲もない人間のようだった。 一般的な常識もあるし、身体的にも問題は無さそうだった。 しかし、今なぜここにいるのか全くわからないようだった。 今までのことを聞いても、 「真っ暗に鏡。真っ暗に鏡。」 と意味がわからないことを言ってていた。 私はとりあえず、外に出た。
- 2 -
行きつけの店でパンを二つ買う。店員の手に小銭を数枚降らせる。そういえばこれからもう一人のわたしの分のご飯も買わなくてはならないのだろうか。わたしの会社で働くわたしは一人だから、時々彼女を替玉にしたところで楽は出来ても給金は一人分しかない。それで二人も養うのかと思うと、香ばしい小麦の薫りも頭に入らない。 パン屋を出てすぐ、携帯に着信が来る。かけてきたのは自宅。一瞬びびったがすぐに思い至る。 彼女だ。
- 3 -
「鏡が、割れたの。」 「鏡が、割れたのよ。」 電波越しにわたしと同じ声が繰り返してぷつりと切れた。 不穏。 そもそもが不吉な出来事かもしれないのだから、慌てたって仕方がない。点滅する信号に足を止め、そのまま次の青を待つ。 鏡が割れたら… 往来が途切れた横断歩道の向こう側に、わたしの知らない服を着たわたしと同じ姿の、 三人目のわたしが立っていた。
- 4 -
信号が青に変わる。驚きのあまり動けないわたしをよそに三人目のわたしは涼しい表情で道を渡ってくる。 すれ違いざま、彼女はわたしを一瞥もしないまま、はっきり呟いた。 「あなた達は用済みよ」 この時、わたしは彼女の後を追うべきだったのかもしれない。でも、漠然とした恐怖が足を竦ませ、暫く動くことが出来なかった。 鏡とは何なのか。用済みとはどういう事なのか。わたしは会社に行くのを諦め、家へと引き返した。
- 5 -
それはもう不穏という言葉では収まりきれない程に、わたしの頭に重くのしかかっていた。心臓の鼓動が厭に早く響くのは、走っているからだけではないだろう。 とにかく、彼女に会って話をしなければーー。 玄関の前で急いで鍵を取り出した。そして、荒い呼吸なのも気にせず、彼女に呼びかけようとしたその瞬間、 「え、な、なに、これ…」 わたしの目に入ってきたのは、彼女が着ていた洋服と、砕けた鏡の欠片だった。
- 6 -
「これでわたしはあと二人ね」 唐突に背後から響いた声に反射的に振り返る。そこにはさっきすれ違った三人目のわたしがいた。 「彼女に何をしたの」 「消えてもらったのよ。邪魔だったから」 「邪魔……?」 「ええ、だってこの世界にわたしは一人で十分だもの」 三人目は笑いながら後ろ手に持っていた何かをわたしにかざした。それが鏡だとわかった瞬間、二人目の言葉が脳裏をよぎる。
- 7 -
きっと、あの鏡に映ってはいけない。私は目の前の私を、無我夢中で突き飛ばした。 「きゃあ!」彼女は悲鳴を上げて転倒し、手に持っていた鏡が床に落ちた。私は素早く鏡を拾い上げると、彼女に向けた。 「いや!やめて映さないで!」彼女は片手で顔を覆うと、尻餅をついたまま後ずさりした。 「逃がさないわ!」私は鏡を思いっきりタンスの角に叩きつけ、鏡を割った。 「ぎゃあああっ!」部屋中に叫び声が響いた。
- 8 -
動悸が収まらない。肩で息をしながら、私はその場でしばらくしゃがみこんだままだった。3人目の彼女は消えてしまっていた。結局彼女たちがなんだったのかわからない。どういう理由で現れて、どういう理由で消えていってしまったのか。私はタンスの側に散らばった、砕けた鏡をちりとりで掬うと、ゴミとして出した。砕けた鏡には私が映り込んでいた。あれ、あの鏡がさらに小さく割れてしまえば、私はどうなるのだろう?
- 完 -