彼はガラスの箱に入っていた。 穢れを知らず何もできない、ガラスから出れずに育てられた彼はこの美術館で最も美しかった。 彼は興奮の視線から避けるようにいつも目を伏せる。 けれど一人だけ、真夜中に来る少女の時だけ彼はそのシアンの瞳で彼女を射抜いた。 恋など知らない彼が、しかしもっと深い所で少女を求めていた。 ガラスに手を当て彼女を欲する彼に、少女もガラスに手を当て体を預ける。 それが二人の合図だった。
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彼はガラスの箱を信じていた。 この狭い空間で大した動きもせずにいるのに、昼間はああなる。箱の外に出たらどうなるか、不安で身体が震える。 ガラスの箱の中なら大丈夫。 けれど彼女と手を合わせている時だけは、二人の体温でガラスが溶ける様を脳裏に描いた。 幾夜を過ごしてもそれはただの幻想だと知るだけだったのに、ある日、彼女は涙を流しながら美術館にやってきた。 その涙を拭うためならガラスを破れる気がした。
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けれども現実には彼の細い手にはガラスは厚すぎた。 少女の涙を拭うどころか頬に触れることもままならない。 少女がなぜ泣いているのか、その理由すらわからない。 泣き止んでほしくて、悲しみの訳を話してほしくて、彼はガラスを叩いて呼びかけた。 コツコツ が、しきりに泣く少女には届かない。 コツコツ コツコツ 叩き続ければやがてガラスが破れると信じているかのように、彼は微かな音を響かせた。
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どの位叩いていただろうか。 どんなに叩いても最後まで泣いている彼女には届かなかった。 もちろんガラスが破れることも無かった。 彼は考えた。 一体どうやったら彼女に気づいてもらえるか必死に考えた。 叫んだら気づく? 今まで声を出したことなんて無いけれど、喉を震わせれば出ると思って叫んでみた。 声になってない叫びがガラスの箱中に響く。 ぱき 彼と彼女の間にあるガラスに大きな亀裂が入った。
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その亀裂は彼の首筋の辺りの高さに出来ていた。 中心となる一点から六本ほどの筋が、それぞれ対角になるように枝分かれして伸びていた。彼は亀裂に指の腹をあて、軽くなぞってみた。平面に生まれたわずかな凹凸、怜悧に尖った裂け目、初めて目にした傷という概念に触れ、心を動かさずにはいられなかった。 彼は急にガラスを破るのが恐ろしくなった。 目の前に彼女がいるのに。もう少しで彼女の涙を拭うことが出来るのに。
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ふいに彼は自分の拳を見た。 ガラスを叩き続けた手は、赤く腫れている。自覚するとともに痛みが彼を襲った。初めての感覚に、彼は恐怖に身をすくませる。 けれど。 彼は彼女に視線を戻す。 彼女は泣きじゃくり、今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏っていた。 ──もし、彼女がいなくなったら。 彼女が訪れる夜がなくなったら。 このガラスの中、永遠に囚われることに一体何の意味があるのか。
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クリスタルの自分に心はない、と思っていた。この身ほど綺麗でない心が叫ぶ。紙一重だ。彼女の悲しみを聞いてあげるのも。彼女の心を手に入れられるのも。細く長い一本の線の上を歩いている。足を踏み外せば、彼女は戻らない。僕は君ほど美しくない。だから君だけは美しくいて欲しい。その時だった。バリバリとガラスが裂け、彼女に手が届いた。彼女に触れると心が宿った。ふるふる震えて廻る。芯から願う。君の人生を護ると。
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彼女は咄嗟に僕を懐ににしまうと、美術館を飛び出し夜の街を駆け抜けた。 息を切らして走る彼女。 あぁこのまま時が止まれば良いのに。こうして彼女とずっと、ずっとずっとひとつでいたい。 「これさえあれば、きっとこれさえあれば。あの人は生きて行ける。」 荒い息に混じる彼女の言葉の意味なんて僕には到底理解できなかったけれど、心地よい温もりに包まれているとそんな事どうでも良いように思えた。
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彼女の息づかいに、真っ赤に染まった僕の手。「これさえあれば」の、「これ」というのは、君の大事なことに役立つんだね?信じるよ。 もう何がどうなっても良い。夜の街を駆ける彼女と僕は、これからも一緒に、彼女の大事なことに使われるのなら。 クリスタルに走った一途な想いを、あらゆるところへ動かす。僕がその枝になれたのなら、これ以上の喜びはない。 そうして毎晩言うんだ。 「おやすみ、マドモワゼル」と──。
- 完 -