金魚のいる部屋

風変わりな形の瓶に張られた水の中を、赤く長い尾鰭を持った金魚達が気持ち良さそうに泳いでいる。 それはまるで、ここ最近の急な気温上昇に適応できずに項垂れている私に見せつけているかのように、優雅に、緩慢な動作で。 あぁ、私がこの金魚だったら、 私は学校で飼われた美しい水生生物を見ながら、毎年飽きもせずに思うのだ。 この金魚になれたならば、と。

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「飽きないもんだな」 水槽を眺めていた私の背後からの声に、椅子から転げ落ちそうになる。態勢を整えて深呼吸をしていると、 「お前、あの金魚みたいだな」 背後にいたのは生物の影山先生だった。 眺めていたのをいつから見ていたのかと思うと恥ずかしさで顔が火照ってくる。 「ほら、やっぱり金魚だよ」 くすくす笑う影山先生が私を見つめる。いつもかけている黒縁眼鏡がないせいか妙に緊張する。

11年前

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「先生こそ、こんな所で何してんの」 金魚に視線を戻して、目の端でちらと先生を伺うと、その切れ長の目もまた金魚に向いていた。 「なにってお前、ここは生物室だよ」 「ああ、そういえば」 脳みそでは先ほどの先生の言葉が木霊する。 “お前、あの金魚みたいだな” ーー確かに。藻の蔓延った水槽という狭い箱の中で、酸素が足りずに口をぱくつかせて、時には共食いなんてする。青春という綺麗な鱗で取り繕ってーー。

駒子

11年前

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嫌だわ。なんだか美化していきそう。私金魚好きなのよね。だから金魚だったら、なんて思うの。 私が似てるのは金魚というよりは魚類なのかも。どうせなら美人な人魚姫に生まれたら良かったのに。水槽越しに優雅に泳ぐ金魚を叩く。 「先生、金魚好き?」 「そうだな。買いやすいし、好きだよ。何より綺麗だし。尾鰭の流れが優雅で涼しくなるんだよ」 「ふうん」 先生を一瞬横目で見る。 金魚、私はあんたが羨ましいよ。

ハイリ

11年前

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「不思議だよな」 先生はまた少し笑ったようだ。 「こんなに狭い中にいるのに優雅で涼しげなんてさ」 眼鏡をかけていないときの笑い顔が見たい。 それをぐっと堪えて、金魚を目で追った。 目の前をすうっと横切り、壁にぶつかる直前に方向転換する金魚。 飽きもせず、繰り返される動き。翻る尾鰭。鱗がきらきら。 「ここが安全な場所だって知ってるからじゃない?」 「そうかもな」

misato

10年前

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ひらり、ひらりと揺らめく尾鰭。 僅かでも傷がついたらそこから裂けていきそうなほどに繊細な美しさ。 「苦しくないのかな」 独り言のような私の言葉に、先生が問うように視線を向けるのを感じる。 「水の中って苦しくないのかな」 もちろん金魚はえら呼吸で酸素を得ているのだ。それはわかってる。 「そうだな。人間も苦しかったら他の方法で息ができればいいのにな」 先生は、余計なことは言わない。

ミズイロ

10年前

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「苦しいよ、先生」 ぽつんと零れ落ちた台詞は、先生に届いただろうか。私は金魚が羨ましい。 長くてひらひらした赤い尾鰭を翻しながら、美しい硝子の器の中で人に愛でられて生きている。 俯けば、水面に映る自分の野暮ったい顔が見て取れた。私があの地味な黒い金魚なら、可愛いクラスメイト達は派手な熱帯魚だろうか。 「あ、ほら。この黒いヤツ、綺麗だろ?尾鰭がさ、翅を広げた蝶みたいなんだよ」 「え……ほんとだ」

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蝶と形容されたそれは長い黒髪のようだった。あの子達の赤茶けた人工色とは違う。そんなことに優越を覚えてしまうほど私は酸素の薄い場所にいたのだったか。優雅で緩慢な泳ぎには潤沢な酸素が必要だ。 「さて、そろそろ次の授業準備があるから」 言外の意を汲んで私は頷いた。 "先生はショートとロングどっちが好きですか" たった一つの二酸化炭素を吐けないだけでこんなに息が詰まるのならやっぱり私は金魚になりたい。

mochi

10年前

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「じゃあ、失礼します」 「ああ。また来いよ」 さらりと投げられた言葉に、ぽかんとしてしまった。 「なに驚いてるんだよ。お前がいないとつまらないだろ?」 そう言うと先生は目を細めて笑った。 私が一番見たかった、眼鏡をかけない素の笑顔。 ──酸素が胸に流れ込んでくるみたいだ、と思った。 「……はい、また来ます。絶対」 「大袈裟なヤツ」 視界の奥の水槽で、金魚がふわり、と尾鰭を揺らした。

まーの

10年前

- 完 -