時間に流される毎日、変わらない日常。 今夜は定時退勤。 仕事帰りにスーパーに寄って安い酒とつまみを探す。 オイル・サーディンか…。 嫌いだった魚料理が今じゃ美味いと思える歳になっている。 缶詰めを手に取り、棚の値段を見ながら軽く舌打ちしてカゴに放り込む。 慣れた手つきでレジを済ませ、出口に向かうと一輪の切り花が目に留まる。 売れ残ったその花は凛々しく咲いていて、ふと2年前に別れた彼女を思い出した。
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白にごく淡いピンクが広がるガーベラ、シェリーだ。すらっとした茎は力強くもある。普段、花など買うような人間ではないが、今夜はお前と晩酌も悪くない。俺は一輪手にとった。 「プレゼントですか?」レジの女の子は屈託のない笑顔を見せた。 「いや、そうじゃない‥」俺は照れを隠すようにぶっきらぼうに答えた。 「それならこれ、つけておきますね」そう言うと、包んだ切り花と一緒に小箱を俺に渡した。
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家についた頃には、もらった小箱のことなどすっかり忘れていた。 キッチンに入ると、つまみの準備にとりかかった。オイルサーディンの缶詰を手早くあけ、オイルを半分ほど捨てる。使いかけのタマネギをみじん切りにすると、缶詰の上にそのまま載せた。オリーブオイルをかるく回し入れると、瓶詰めのバジルを振りかけた。 缶詰のまま弱火にかければ一丁あがり。俺の得意な手抜き料理だ。あいつもよく美味しいと言ってくれたっけ。
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彼女とは友人の紹介で知り合った。良くある話だ。背が高く、意志の強そうな眼差しに惹かれた。 一緒にお酒を飲むのが2人の楽しみだった。 彼女が行ってみたいというBarを見つけてきては、仕事帰りに飲みに行った。 週末は、映画を観に行ったりデートらしいことをして、夜は簡単なおつまみで乾杯した。 何の根拠も無いけど、こんな平和な日々がずっと続くような気がしていた。そんな穏やかな気持ちで日々を過ごしていた。
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花瓶に水を入れ、ガーベラを刺し、あれこれ回想していると、部屋にはいい匂いが広がってきた。缶詰ごとテーブルに運び、ワインをグラスに注ぐ。テーブルの上には、放り投げたままの小箱があった。 箱を開けてみると、中に入っていたのは小さな種。もう春か•••。慌ただしい日々に追われ、冬が終わりに近づいている事にも気づいていなかった。ふと、カレンダーを見て気づいた。今日は彼女の誕生日じゃなかったか?
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久しぶりに電話でもかけてみようか? いや、誕生日の夜だ、恋人とディナー中だろう。無粋というものだ。 俺はワインを一口飲むと、ターンテーブルのスイッチをいれた。立てかけてあるコレクションからノラジョーンズのアルバムを選ぶと、慎重に針を落とす。 〜私の心はワインに浸ってしまったみたい。でもあなたを想っているよ、ずっと。 ヒット曲「Don't know why」。俺はもう一口、ワインを飲んだ。
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少し酔ったようだ。 ターンテーブルもさっきから沈黙を奏でている。俺はレコードを裏返し、針を落とした。 酔いが回ると人恋しさも一層募る。気がつくと俺は彼女の番号をダイヤルしていた。
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「繋がらない、よな」 無機質な電話の呼び出し音が耳奥で反響して意味もなく子供みたいに緊張する。 別段出て欲しい訳でもない。 繋がらないことを進んで望む訳でもない。 漠然としたなにか、それを確かめたいだけの自己満足に過ぎないのは理解している。 そうこうしている間にも電話は呼び出しを繰り返す。 「……切るか」 呟いて電話を耳元から引き離す。 刹那、 「……もしもし?」 電話からか細い声が響く。
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言葉に窮した。 「久しぶり…だね」 「うん」 だが…懐かしい声だった。 やや色素の薄い瞳、桜色の唇。彼女の細部が脳裏に蘇る。 同時に、胸の奥から込み上げてくるもの。漠然としたなにか、の正体だった。 彼女と過ごした日々は、俺の中ではまだ終わっていなかったのだ。 オイル・サーディン、ワイン、一輪の花、植物の種、ノラジョーンズ。 全てを彼女と共有したかった。言葉は自然に出てきた。 「誕生日…おめでとう」
- 完 -