海の向こうから

早朝に起きて浜辺を散策するのが彼の日課になっていた。
浜辺には様々なものが流れ着く。クラゲ、魚、海藻、何だかよく分からないごみ、たまに人。
彼はそれらを避けたり、海にかえしてやったりしながら、毎日同じ場所で引き返して家に帰る。
今朝、彼の足を止めたのは、小さな瓶だった。表面についた砂を払ってみると、中には紙切れが一枚。
「助けてください」
とだけ書かれたそれを、彼は瓶と一緒に持ち帰った。

らうる
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いつもの様に紙切れを壁に貼り付けた。彼の家の壁は大量の「助けてください」で埋め尽くされている。
彼は繊細かつ大胆に瓶を割り、やすりで丁寧に角を丸くすると、浜辺にばら蒔いた。
これが彼の仕事なのだ。その浜辺のビーチグラスは彼が一人で担当している。
彼はただ機械的に瓶を拾いビーチグラスを作る。
その職に就いて間もない頃は「助けてください」の紙切れについてよく思案したものだった。

八重のオコア
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しかし、手がかりもなく、たった一行のそのメッセージだけではどうにもしようがない。彼は、初めこそ歯がゆさに心を痛めたが、今は海風と日光に晒されて丈夫になった肌と同じように、細かなことに気を取られぬよう、深く考えないことにしていた。
ただ、歯がゆさの名残として、見つけたメッセージは必ず部屋に保存していた。胸の内のどこかでは、彼はこうも思っていた。

いつか、このメッセージに応えてやりたい。

遠雷
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そして、その機会は突然やってきた。

いつも通り浜辺を歩いていると、彼は流れ着いた人を見つけた。稀にあることだ。
海の向こうからボロ切れを纏った人間が流れてくる。大概は栄養不足な体をしていて、力尽きて息を引き取っている。
しかし、今日の漂流者は様子が違った。
きちんとした身なりをしていた上、その女の胸元が上下していたのだ。
彼は前例の無い事態に動揺しながらも、女の元へと駆け寄った。

空夜
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「大丈夫ですか」と声をかけ、肩を揺すると、女は咳き込んだ。戸惑いつつも背中をさすってやり、ひとまず保護しなければと女を抱き上げ、家に向かう。
正義感と妙な高揚感が湧き上がるが、少しばかり気を鎮めなければと彼は息を吐いた。

女の名はイヴと言った。海の向こうの列強な軍事国家の元貴族で、その国から亡命してきたらしく、彼が入れた湯気の立つホットミルクを両手に包みながら少しの安堵を滲ませている。

小麦
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イヴを置いて、放っぽり出して来た仕事を片づけに海へ戻る。やはりいつもの場所に瓶は落ちていた。

急いで帰宅すると、ダイニングからイヴの姿が消えていた。見つけた時、彼女は部屋の壁を凝視していた。メッセージで埋められた壁を。
「あっ、勝手にごめんなさい」
彼に気づくと、彼女は取り繕った表情を浮かべようとして失敗した。
「異常に見えるだろう」
「いえ、ただ……知人の字に似ていたから」
手の中の瓶を見る。

金春こんぺい燈
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その紙は排紙を千切ったもので、薄い筆圧の妙に癖のある文字で書かれていた。そのメッセージを拾った日付を確認すると、今から半年も前のことになっていた。
どうすることもできない救難の一つである。

「その方は、どんな方だったのですか?」
「彼女は、私の家で働いていたことのある人でした。代筆などを任せていたこともあるので、それでよく覚えているのです」
これを頂いても構いませんか、とイヴは彼に尋ねた。

aoto'
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「ええ、もちろんです」
彼がそう言うと、イヴは大事そうに紙を胸にしまった。彼女の手元を見ていた彼は、慌てて目をそらす。
「彼女、少し変わった人だったんです。小さかった私にいろんな遊びを教えてくれて。たとえばオレンジの汁を使って炙り焼きのメッセージを作ったり……」
そこまで言うと、イヴははっとした顔をして、もう一度、手紙を取り出した。

「すみません、ストーブを借りてもいいですか?」

こ りす
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ストーブの熱は排紙の余白から文字を炙り出した。
『イヴ様を助けてください』
それを見るなり彼は壁の紙を数枚剥ぎ取り次々とストーブの前にかざした。
『ルイを助けてください』
『セヴを……』
『ハンナ……』
「これは」
彼は急ぎ外に出ようとしたがイヴがそれを制した。
「いいんです。これはただの、おまじないですから。私の祖国はもう……」
続く言葉は潮風の中に消えた。壁に吊ったビーチグラスが揺れていた。

nanome
- 完 -

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