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みなとの流説

その町は船乗りたちが長旅の途中に立ち寄る宿場の町だった。
阿国は女郎屋の中でも特に新米で、男たちに酒を注ぐのもおそるおそるという様子をよく宿の主人から叱責されていた。
そんな阿国が町外れの湊神社に通い詰めになっている、という噂がたったのだ。

「客の男に絆されたか」

口さがない者たちはそう言った。
湊神社は遊女らが客足の絶えぬよう、時化を願うことで有名であったが、阿国は様子が違うというのだ。

まーの
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日に二回、朝と夜。欠かさず通うのである。かれこれ、もう二ヶ月近くやっている。

「何事だ」
いくら宿主が聞いても、阿国は
「なんでもござりません。ただの習慣です」
と、明かすことはなかった。

ある大きな嵐の夜。
海は黒く荒れ、とぐろを巻くように港に叩きつける。
槍のような雨が、阿国の宿にも叩きつけていた。
「…どうかご無事で」
阿国は着物の裾を握りしめ、呟いた。

Dangerous
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阿国の眼裏に浮かぶのは一人の男。交わってはいない。酒に慣れていない阿国は、あの夜、男より先に眠ってしまったのだ。

目覚めると、すぐ傍に男の顔があった。日に焼けた、精悍な顔。
ぼんやり見惚れた直後、事態に気づいた阿国は仰天した。飛び起きて慌てて詫びた。

が、男に怒る気配はなかった。どころか、まるで幼子でも見るような目を阿国に向け、ただ笑ったのだ。

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「起こしてしまったようだね。すまない」
男は穏やかな低い声で静かに言った。

こんな男は初めてだと阿国は思った。

船乗りの男達はどいつもこいつも、ろくでもない荒くれ者ばかりだった。
好色で酒癖も悪く、女をまるで物のように扱う。

しかし、目の前の男は違った。

男は温厚そうな笑みを浮かべ阿国を見つめていた。
優しげな表情とは裏腹に、その瞳は深い海のように黒く、静謐で神秘的な美しさを湛えていた。

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男は上方に本店を置く廻船問屋の番頭で、菊弥と名乗った。

「お前さんの寝顔はいい肴になった。眺めていると何故か気が休まる」

阿国は恥ずかしさのあまり俯いたが、菊弥はそんな彼女の手を取って「少し付き合ってくれ」と立ち上がった。

客が女郎を連れ出すなど珍しいが、菊弥は女郎屋の女将に律儀に断りを入れると、阿国の手を引いて湊神社を訪れた。

「このお社は時化を願う場所、縁起が悪うございますよ……?」

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「いや、ここでいい。時化になれば、またお前さんのところに寄ることができるからね」

そう言って菊弥は神前に柏手を打った。
もしかすると菊弥は意に沿わぬ仕事を抱えていたのかもしれない。しかし阿国にはそれを踏み込んで尋ねることができなかった。
ただ、僅かに影の差した笑顔だけが、阿国の心に焼きついた。

嵐の過ぎた朝、阿国たちの女郎屋に同心が訪ねてきた。二ヶ月ほど前、廻船問屋の番頭が来なかったかと言う。

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阿国は、ふ、と考えるような素振りを見せてから、覚えていないと答えた。
実際、客は毎夜途切れることはない。特に阿国のような新米は廉価で、休む暇など無いに等しい。
同心は暫く粘っていたが、何も話さないとわかったのか帰っていった。

夏の夕暮れを阿国は歩いた。もうすぐで店が始まるが、どうしても湊神社に足を向けたかった。
客達の噂でなんとなくの状況は知っている。小さな町は噂が嘘で塗り替えられるのも速い。

うみの みおり
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石階段を駆け上がり、大鳥居を潜ると、参道脇の茂みから突如腕を引かれた。仰天して腰が抜けそうになるのを踏ん張って振り返ると。
「しっ。その名は呼ばないでおくれ」
随分とやつれ、泥と垢まみれになってはいたが、すぐにその人とわかった。思考が追いつかず、ぽろぽろと涙が頬を伝い落ちるままにする。
一体何が。そう、尋ねてしまいたかったのだけれど。
「何か、私にできることは……?」
ただ、声を潜めて物陰へ。

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──『湊詣りの阿国』と噂が広まり、物見高さに煽られた上客が少しつくようになった。

一体何が…判っていた。菊弥が不正を働き、逃げたこと。それが故意に流されたものだということも。
『お前さんの寝顔が見たい』…判っていた、目覚めたら、その人はいなくなっていることも。

信じている。その人が無事でいて、時化にまた宿の戸を叩いてくれることを。
広い海のどこからでも私を見つけられるよう、私は喜んで噂となる。

のんのん
- 完 -