ソラクラゲが夜の間に吸い上げた海水をパラパラと降らせている。
大気は少し湿り気を帯びており、出発するにはいい朝だ。
「お待たせ」
私は最近やっと飛び慣れたグミイルカの背に乗り、その弾力のある体を優しく叩いた。
グミイルカ種の体色は個体ごとに大きく異なり、私が母から貰ったのは赤と黄色のグラデーションが綺麗な、珍しい子だった。
「さあいこう、カラハ」
グミイルカは胸ビレを動かし、空を泳ぎはじめた。
浮かぶ雲を伝って、グミイルカは気持ちよさそうに空を泳ぐ。
時折金魚みたく、口をパクパクさせては、再び雲の中に潜り込む。雲の泡で遊ぶのが好きなのだ。途中、ソライワシの群が行く手を阻む。
「食べちゃだめ」
私はカラハの頭を撫でて言い聞かす。食べちゃったら、空を泳げなくなってしまうよ。カラハはきゅーんと甘えたような声を出しながら、ソライワシの群を避けて進んでいく。まだまだお出かけは始まったばかりなのだ。
海水の抜けたソラクラゲが漂っている。お出かけはとても順調だった。
ところが突然、どうと強い風が吹いた。近くにカゼフキエイがいるらしい。大きな胸ビレが羽ばたくたびに、竜巻のような風が巻き起こるのだ。
流されないように、カラハの背ビレにしがみつく。ワタアメヒツジが私たちの目の前で何頭も吹き飛んでいった。そして、
「あっ」
肩から斜めにかけていたポシェットの紐が千切れ、雲の向こうに飛ばされてしまった。
飛ばされると思ったポシェットは空中で止まった。
すいすいと泳ぎ、鞄を口に咥えて現れたのはイネムリアザラシ。ありがとう、とポシェットを取ろうとすると優雅にくるりと周る。彼らは普段害はなく、居眠りをしていることが多いのだが、起きている時はイタズラ好きになるのだ。
再び手を伸ばすが、あと少しというところですいと交わされる。彼らにしてみればただ遊んでいるだけなのだ。
もう、と溜息をつく。まだ、時間はある。
イネムリアザラシはこちらを振り返りながら少しずつ遠ざかる。まるで捕まえてご覧と言わんばかり。
「カラハ、お願い」
グミイルカの遊泳速度は空の生物の中でもトップクラス。カラハはキュンとひと鳴きすると、たちまちイネムリアザラシの前に回り込み、ポシェットを取り戻してくれた。
「ありがとう」
カラハに、もう無茶はさせられない。疲れると飛べなくなってしまう。
さあ、先へ進もう。
目的の場所まであと少し。
そこはゆったりとした風が吹いていた。前髪を揺らす風が心地よい。辺りは静かで、先ほどまでいた動物たちの姿はない。
きゅーい、と少し緊張気味に鳴くカラハの背中を撫でてやり、道を進んでいく。
ここは、終わりと始まりの場所。
動物たちはここから生まれ、ここで消える。カラハもここで生まれたのだ。と言っても、生み出したのは母なのだけれど。
「母さん、来たよ」
ポシェットから母の好きだったお菓子を取り出す。
「ワダツミ ここに眠る」
ワダツミ。私の母の名前だ。その母が眠る、終わりと始まりの場所は、今日も──。
「カラハと一緒に、海の向こうまで旅をしてきなさい」
私は毎日、母に手紙を書いた。色々な海のなかのいきものたち。
「お母さんすごいね。なんでもうめて」
そう書いたある日から、手紙の返事が来なくなった。まさかとは思ったけど、やっぱり、そうだったなんて。
──今日も、お母さんでいっぱいだった。
お母さん。私だけのお母さんではないけれど、大好きなお母さん。
そわそわし始めたカラハの背中をそっと撫でる。
「そろそろ帰ろうか」
辺りにはまた、ワタアメヒツジが何頭も集まって、ふわふわの体を寄せあっている。
突然、カラハが勢い良く飛び出した。思わず手が離れて、振り落とされそうになった。なんとか足に力を込めて、カラハの体を挟んで耐える。その間、私の顔や胸に何度もソライワシがぶつかった。
ソライワシの群れを抜け出して、瞼の裏から光が射し込む。目をひらけば、この身は天の縁まで浮かんでいた。
淡い七色に透き通るサンゴ礁を背に、
渦を巻くソライワシ、
追って空をかけるグミイルカ、
のんびりと空を眺めるワタアメヒツジ。
彩りを宿した彼らは、陽の煌めきを帯びる。
耳元の囁き。
「海空模様はどうかしら」
呆けた私は振り向くことさえできなくて、
きっと、ここが私の始まりだった