犬とナイフ

どうしてこんなことになってしまったのだろう。答えが見つかったところで最早意味など成さないというのに、僕は自問を繰り返す。 そっと彼女の頬に触れる。僅かに震える指先に、生前と同じ温もりが伝わる。だが青褪めた皮膚は無機質な人形のようで、すでに彼女の生命の灯火が失われてしまったことを、静かに示していた。 いや、そんなものよりも。 僕は茫然自失のまま、彼女の胸に突き刺さったナイフの柄を見つめた。

- 1 -

そうしていると蘇る、ナイフが彼女の胸に飲み込まれてゆく感触。掴んだ柄の冷たさ。僕の手を導く少し湿った彼女の手のひら。 そう。このナイフは僕が刺した。 僕は彼女の望む死を与えた。 僕は望んでいなかった、こんな結末なんて。 「これでいいの」 彼女が微笑みを浮かべて呟いた最後の言葉が、その意味とは裏腹に僕を強く責めたてる。フローリングに広がる血溜まりは、僕の白い靴下までも赤く染めた。 ごめん。

miz.

12年前

- 2 -

謝っても、もうどうにもなりはしない。 不貞を告白したのは彼女だった。 ほろほろと涙を流す彼女を、僕は呆然と眺めていた。あれだけ僕のことを愛していると言った彼女が。到底信じられなくて、まるで夢の中のように現実が遠ざかった。 そして、今になってようやく現実が帰ってきた。堪え難い血生臭さと共に。 どうして。 酷いじゃないか。 僕が悪かった。 ごめん。 でも。 感情が錯綜する。 こんな結末は、嫌だ。

lalalacco

12年前

- 3 -

「彼女はずるい女だ」 黒ずくめの男が現れた。仮面をかぶり口元しか見えない。唇が妙に赤いのが奇妙だ。 「不貞を告白し、お前を殺人犯に仕立てた。最低の女だ。死を望むくらいならお前の前から消えればいいだけだろう」 男の話は、僕を痛めつける。 「この死体を私が片付けてやる。その代わり、お前は私として生きてもらう。どうだ?」 男は仮面を外した。男は彼女の不貞の相手だった。

11年前

- 4 -

耳を疑った。 何故僕が、憎い不貞の相手として生きなければならないんだ。 そもそも、他人になって生きるなんてできるはずがない。 こいつは一体何を考えている? 「彼女は破滅を望んでいた。厄介な女に惹かれたものだな、お前も私も」 男は屈んで彼女の髪に触れた。愛おしむようなその仕草に、どうしてだか、こいつには敵わないと感じた。 「じゃあな」 男は彼女の身体を抱き上げ、僕の返事も聞かずに消えた。

misato

11年前

- 5 -

僕はただ一人、部屋に残された。血だまりの床に膝をついた。彼女の命を奪ったこの両手が、じんじんと痺れているような錯覚を覚えた。彼女は僕を裏切っていた。不貞をはたらきながらも僕に愛してると囁いていたのだ。その上で彼女は死を望んでいた。悪いのは彼女とあの男じゃないかーー。 いや、違う。 彼女を殺したのは僕の意思、僕自身だ。破滅を望んでいた彼女を、死を望んでいた彼女を愛せなかったのは僕だ。

てらこ

10年前

- 6 -

「少し違うな」 声がした方を振り返ると、さっきとは別の男が立っていた。 「誰だ?」 「私は探偵。君は何故、彼女が破滅を望んでいたと思うね?」 「それは、彼女は浮気の罪悪感に耐えかねて…」 「そうじゃない、これは彼女の復讐なのだ」 「復讐だって!?」 男が何を言っているのか分からなかった。 「自分を殺させ君を破滅させる、そもそもその為に彼女は君に近づいた。浮気もその布石に過ぎなかったのだ」

10年前

- 7 -

自我を失わせて君を破滅させる。それが彼女の真の目的なのさ── 聞きたくもない言葉が頭の中でこだまする。 そんなはず、ない。 彼女がそんなことをするはずがないんだ。第一、僕は彼女に恨まれるようなこと…… その時、僕の脳裏に一つの場面がよぎった。 一匹の犬と共に歩いている彼女。 怪しげな注射器を手にして笑みを浮かべている僕。 そういえば。 あの犬を連れていたのは彼女だったのではないか?

- 8 -

その時期、このあたりのペットが次々と姿を消すという事件があった。最初はハムスターや小鳥、次に猫や小型犬。最後にシベリアンハスキーが一頭消えたところで事件は途絶えていた。 同じ頃、家に迷い込んでいた犬を届けたことがあった。首輪があったので飼い犬だとすぐにわかったのだけれど── 僕は床に残された血溜まりを見つめた。探偵と名乗った男は冷たく言った。 「君は、彼女と同じ愉悦を感じられたかい」

まーの

10年前

- 完 -