夏の夜の潮騒

暑苦しい夜だった。 その頃の僕は、クーラーなんて買う金は無く、夏を扇風機で乗り切ろうとしていた。 だが、田舎から越してきたばかりの僕には、東京の蒸し暑さは、想像以上にキツイものだった。 夜になっても不快な暑さは続き、寝つくのも一苦労だった。 耐えきれなくて、窓を開けると、風が吹き込んだ。 外の空気も似たり寄ったりだったが、開けないよりはマシだった。 その時、風と一緒に、音が運ばれてきた。

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耳を撫でるのは、風の音──いや、違う。引いては寄せるそれは、潮騒だ。静かな波の音が、風に乗って潮の香りを運び、蒸せ返るような暑さを和らげる。 その心地良さに、僕は窓の桟に肘を着き、うっとりと目を閉じた。 が、すぐにハッと我に返る。 この都心に潮騒なんてありえないじゃあないか。 慌てて外を見ると、当たり前だが海など見当たらず、人工の明かりが夜を照らしていた。 夢でも見たのだろうか。

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しかし、潮騒の音は絶えずこちらに聞こえてくる。 僕は自分の頬を2度ほど叩いた。 痛い。 夢じゃない。 そしてその音は、だんだん大きくなってきた。 まるで、こちらに海ごと近づいてくるように。 外はいつもと変わらぬ夜の景色である。 僕は焦った。この音はいったい何なんだと。

muu

8年前

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そうこうしているうちに、波の音はさらに大きくなる。まるでこのボロアパート全体が大海原に包まれているようだった。 窓の外にはいつもと変わらぬ東京の喧騒が── どうなってるんだ? ショボつく目を擦りつける。 ビルだと思っていた明りは対岸に建ち並ぶ街々の夜景だった。窓の下にはコールタールの様な暗い波間が広がっている。 ……本当に海に浮かんでる。 肌寒い夜の潮風が、窓辺のカーテンを吹き上げる。

Utubo

8年前

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大津波が来たのか、それとも埋め立て地でも崩れてしまっただろうか。東京の町を浸す海は淀んだ空気やゴミのいっさいを洗い流してくれるのかもしれない。けれど、そんな妄想は無意味だとすぐに気づかされた。海の水は手には触れられなかった。海から外した指は乾いていて、雫の一滴さえ、見受けられない。そのとき、僕はこれが現実の海ではないことを理解した。目に見えながらも、実在していない海の水。どこからやってきたのか。

aoto

8年前

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次の瞬間、大きな波がビルの谷間を通り過ぎた。それは窓から部屋の中にも入ってきた。僕は思わずのけぞった。。勿論、現実の波ではないのだから無意味なことだったが。 黒い波は壁をすり抜け消えていった。これは一体、なんなのだろう。 波の音はゆっくり遠ざかる。 不意に昔住んでいた街を思い出した。あそこの海で小さい頃よく遊んだものだ。あの街は、僕が引っ越した直後に、津波によって跡形も無くなった。

Dangerous

8年前

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「落ち着いたら遊びにくるね」 友人と交わした約束も果たすことができなくなった。街が消えたことも知人を失ったことも悲しかったが、今に至るまで残ったのは悲しみよりも罪悪感だった。 なぜ自分はあの地にいなかったのだろう。 なぜ今も変わらない日常を過ごしているのだろう。 まるで僕だけがずるをして逃げだしたような。 再び黒い波が僕を飲みこむ。 先ほどよりも大きなまぼろしの波に、息ができなくなる。

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僕を捕まえに来たのか。 僕だけ逃げたから、助かったから。 触れられないはずの水に溺れそうになる。 ──違うよ。 その時、声を聞いた。優しく温かい、聞き覚えのある声だった。 ──会いに来たんだ。 相変わらず優しい声。僕は恐る恐る目を開けたが、ここには僕しかいないようだ。声の主かと思った相手は見当たらなかった。 その代わり、僕の眼下一面に広がる、失われたはずの懐かしい景色を見た。

haduki

6年前

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顔を上げハッとした。 そうか、今日は八月の……! 激しい自責の念にかられ、その場に泣き崩れた。 ――怖がらせちゃってごめんね。そんなつもりじゃなかったんだ。 ――元気で。 それだけ残し、潮騒は遠ざかっていった。 気がつくと蒸し暑い部屋で寝ていた。 僕は涙をぬぐい、窓を開け夜空を見上げた。 夜が明けたら、あいつの墓参りに行こう。 そしてずっと言えなかった、たくさんのことを語り合おう。

Aonami

6年前

- 完 -