アンティークな飴色のテーブルセット、柱時計。 銀杏並木沿いの築百年の古民家を改築したクラシック喫茶。 客は名盤への熱い想いや、名曲との思い出を語りに来る。質のよいオーディオセット、多彩に揃えられた名演奏のレコード、CDたち。 店の奥にはフルコンサートのグランドピアノがあり、時には小さな演奏会も開かれる。 初老の女店主は、今日も丁寧に紅茶の葉を蒸らす。 常連客が、そろそろやってくるはずだ……
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カランコロン、ドアベルの音が店内に響く。初老の男性が帽子とコートを脱ぎ、カウンターのいつもの席に座った。注文は決まってルフナのミルクティー。 「ショパンのノクターンって第2番が有名だけど、甘ったるすぎてどうもね…僕は第20番が一番好きだな」 1年ほど前まではピアニストの奥様と仲睦まじく来店されていたが、最近は男性一人だ。女店主は何も言わずそっとレコードに針を落とす。第20番の副題は「遺作」。
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「遺作」の残響が消える頃、次の客が入ってきた。ヴィオラケースを背負った、三十路の女性。女主人はニルギリの横にジャムの小瓶と銀のスプーンをそっと添える。 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。第2楽章を女性は頼んだ。 柔らかく甘美な旋律。流れるようなピアノのスケルツォの後に訪れる寧静な弦楽の音に誘われ、女性は一粒の涙を零す。 いつもは大らかで朗らかな笑顔を見せるはずの女性の涙の訳は、誰も訊かなかった。
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ピアノ協奏曲が終わる頃、久しぶりに いつも元気な大学生の彼がやってきた おしゃべり好きな彼はいつもカウンターに 座り大学の話を女店主にするが… 今日は少し様子が違う… 喪服姿でただ、呆然とカウンターに座る 店主は、彼の好きなオレンジペコを そっと差し出す… 今日の彼にはショパンの別れの曲。 彼はそっと目を閉じ、オレンジペコを飲むと 小さな声で「ありがとう」と… 店主は微笑み、一緒に目を閉じる
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次に来店したのは、あどけない顔の少女。首に絆創膏を貼っている。 「それ…バイオリンたこですか?私も経験あるわ」 緊張した様子の彼女に店主は言う。 「あ、はい。キスマークみたいってからかわれて…」 二人は顔を見合わせて笑う。少女は言った。 「優しい方で良かった。ここ、憧れのお店で。あの、メンコンを流して頂けますか?」 「もちろん」 バイオリンの美しい独奏が流れる中、少女は幸福そうにココアを飲んだ。
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「私のトロンボーンは元気ですよ」 紺色ブレザーを着て現れた美しいロングヘアの女子高生。 「育ちざかりなんだからね!」 と、メープルシロップたっぷりのハニートースト、バニラアイスのせを注文する。 「そう! トロンボーン吹ける人って少なくて、地味な役割ばっかだけど、今度『A列車で行こう』やることになったんですよ! 何気に主役!」 彼女は曲に会わせて演奏の練習をしていく。
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メンコンも終わりに近づいた頃、黒い服を来た青年がやって来た。彼はミルクティーを注文してから言う。 「死と乙女の第二楽章をかけてくれませんか」 店内を悲しみの音楽が優しく包む。彼はミルクティーにはあまり手をつけず、死と乙女に聴き入っていた。 しばらくしてチェロの静かな力をもつメロディーが流れてくる。 「シューベルトの世界に行けたらなぁ」 そう言って彼はどこか遠くを見つめていた。
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客足が途切れた夕暮れ、再びカランコロンとドアベルが鳴った。入ってきたのは、金髪で華美なスーツ姿の女性だった。 スコーンとおすすめの紅茶を頼まれた女店主は、ウバのミルクティーと、ゆるい生クリームを添えたスコーンを運ぶ。 「私、歌を歌っているんです。けど」 カップを置いてから、女性は口を開いた。 「クラシックがわからなくて。何か、幸せな感情が込もった曲を聴かせて下さい。歌以外の表現を聴いてみたくて」
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「それでしたら、こちらなんかよろしいのではないでしょうか」 女主人はゆっくりとした手つきでレコードを出す。 そっと針を落として……そこにいる全員が曲に聴き入った。 ラフマニノフの、交響曲第2番第3楽章。 ゆっくりと流れていく音楽は、皆の心を癒していく。 「私、またここへ来ます。クラシック、もっと知りたい」 常連客が、また一人増えた。 「いつでもいらして下さいね」
- 完 -