記憶の深淵

ふと目覚めた時、そこは公園のベンチだった。 どうやら記憶がねじ曲がっている。 というのも一般教養的な記憶はあるのにパーソナルな記憶が無い。 自分について、家族について、友人について、何も記憶が無い。 身体を調べると右ポケットにくしゃくしゃのお札と硬貨が一枚づつあった。 1010円から始まる新しい私。か、 採用されないコピーだな。 季節も偶然にも春。 というか4月1日か。 やれやれ。

羊男。

13年前

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とりあえず家に帰ろう。 ふと思えば自分の家が何処にあるのかも分からない。 さて、今からどうしよう。 いきなり私は途方にくれることになった。

noname

13年前

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あてもなく歩き出そうとしたそのとき、目の前で泣いてる子供がいた。親の姿は見えなかった。 「どうしたの?お母さんは?」 子供は得意ではなかった。でも放って置くわけにもいかなかった。 「キーホルダーがないの。リリィの形」 リリィとはその子の犬の様だ。 630円。苺のキーホルダーを買ってあげた。その子が気に入るかはわからない。 戻ったきた母親は子供を守るように私を睨んできた。無理はない。残金380円。

nao

13年前

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無性に喉が渇く。腹は減っていないが、とにかく喉が渇いた。 辺りを見渡すと、幸いに自動販売機が見つかった。 しかしさて、何を買ったものか。120円の消費はこの際仕方がないとして、自分の好みが思い出せない。私はなにを好んで飲んでいたのだったか。 「ええい、ままよ」 目を瞑り、勢いに任せてスイッチを押した。落ちてきたのはブラックコーヒー無糖。とりあえず一口。 「苦……まずっ」 残金260円。

やーやー

13年前

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そろそろ、何処かに行くか… とりあえず電車使って、残金で行けるとこまで行こうかな。 …駅がどこだかわかんねぇ… まぁ、大きい通りに出ればそのうち見つかるだろう。それに、何か思い出せるかもしれない。運が良ければ、俺を知っている人に会えるかも… そう自分を元気づけて、歩き始めた。周りは4月1日のせいか、たくさんの人たちが歩いている。皆は何処に向かって歩いているのか… 風が吹き 桜が舞った。

noname

13年前

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何となく、胸にしみるもののある光景だと思ったが、これは単に、人として誰もが感じる感慨、のようなものかも知れない。私個人の特別なものでは無いのかも。 駅を探すなら人が沢山向かう方向へ、と歩いていたら、交番を発見。捜索願とか出てたりしてな、なんてうっすら考えつつ引戸をガラガラ。 中には小太りの若いお巡りさんがいた。

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「すみません」 声を掛けると、小太りの警官は物凄く退屈そうな顔から、主人を見付けた犬のような顔に一変した。 「どうもどうも!道に迷われましたか?それとも落し物?あ、ペットがいなくなったとか!さあ、何でもお気軽にお尋ね下さい!」 新人でやる気だけは溢れているのに客が来なかったらしい。 ふと交番内のポスターと目が合う。その人物には見覚えがあった。…見覚えなんてもんじゃない。 正真正銘、自分の顔だ。

nonama

13年前

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【無差別大量殺人犯】[懸賞金1200万] 私は我が目を疑った。 そして、それと同時に全ての記憶が流れ込んで来た。 だが、思い出したのは自分についての記憶だけ。 それもそうだ。 私には家族も、友人も、自分の住居さえも、最初からないのだから。 生まれた時から施設で育ち、そこを抜け出してからは、ずっと路上生活。 誰も助けてくれず、変わらず流れていく世界に嫌気が差して、ああしたのだ。

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銃の存在を思い出しポケットからそれを取りだす。銃口は目の前の脂肪の塊へ、まっすぐ。 新人警官は目を見開き一、二歩退いたが、やがて死を受け入れたように諦めの色を瞳にうかばせた。倒れた警官の死を確認し、交番を出る。 まだ記憶を失う前に怪しげな男からもらった薬を公園のベンチの上で飲んだ。あの時のように。 …だんだん意識が遠のく。今度は二度と自分の事を思い出さないよう祈りながらーー静寂に身をまかせた。

- 完 -