日記

この日記を読んでいるのは誰だろうか? いや、誰でも構わない。 この日記が読まれているという事は、もう私はこの世界には存在していないだろうから。 ああ、どうしてこうなってしまったのだろう… 思い返せば2年前、寂れた古本屋へふらりと立ち寄った私は、一冊の本を見つけた。 何かの皮で装丁されたその本の内容に私はすぐに魅入られてしまった。 失われた世界、形容し難い存在。中でも特に目を引いたのがそれだった。

kagetuya

13年前

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気が付いたら手にとり頁をめくっていた。 そのまま時間が経っていたらしい。偏屈そうな丸眼鏡の老眼鏡を掛けた呆れ顔の老人が 「買わないなら帰ってくれないか」 と苛立った声を出す。 私は申し訳なさそうに本を買い、何時の間にやら暮れた空を眺めながら家へと帰った。 その日から私は片時もこの本を離さず、また暇が出来る度に読んでいたらしい。しかしながらこの本に関する記憶が全くない。中身を思い出せないのだ。

non@me

13年前

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私の記憶は、少しずつ、だが確実にこの本によって蝕まれていった。 はじめは、本の内容が思い出せないだけだった。だから繰り返し本を読み、そのたびに例えようもない愉悦に浸った。次第に、本を読む頻度と時間が増えてきた。気がつくと、私の日常はすっかりこの本によって喰い尽くされていた。 恐ろしかった。本を捨てようともした。けれど出来なかった。 日記をつけ始めたのは、この頃からだ。

lalalacco

13年前

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些細な日常の出来事、知人とのやり取り、買ったものや食べたもの、どんな小さなことでも。 書いて、残すことができるのか。それは実験のようなものだった。 ノートを持ち歩き、行動したらすぐ記録を付ける。そうして、書いたことを読み返してから眠りにつく。 そうして一週間も過ごした後、書いたページを最初からめくって見て、愕然とした。 こんなにも詳細に残した記録の、半分も記憶には残っていない。

leisai

13年前

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だがあの本を読むことだけはやめることができなかった。 知的欲求を存分に満たしてくれていたからだろう。まるで宇宙の全てが記されているかのようだった。 人類がこれまでに、そしてこれからも触れられない真実について。 ただ、何が書かれているのかその記憶はないのだ。ヒトごときに知る権利などないと言われているように。 これは私の日記だ。 同時に人類の挑戦でもある。少しずつ、その確信が私の心を支配していた。

yoshihu

13年前

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ある日私は、その本の内容を自分の日記に書き写そうとペンを手にとった。 そうすることで、本の内容を忘れずにいられると思ったからだ。 『今日はとても気分がいい朝だ、 晴れ渡る空と…』 書いているうちに違和感と可笑しさを覚えた。 違う、本の内容はこんなものではなかったはずだ。 これではただの私の日記だ。 そういえばこの文は前にも書いた。 その日付はいつだったろうか… 私は日記の前のページをめくる。

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昨日、一昨日、一昨々日。 同じ文書が綴られていた。 こんなにも記憶が蝕まれていた。 その事実に驚愕しながらもまだ私は本を捨てられず居る。麻薬の様な本の魅力に取り憑かれ離れ難くなって居たのだ。 この頃から私の命は先が短いだろうと言う漠然とた思いが芽生えていた。 そして本の正体にも気が付き始めていた。 これからは本に対して命を掛けた挑戦になるだろう。 正体が分かったらそれを日記に書く事としよう。

errorcat

13年前

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蝕まれていく記憶。それによって多くのものを失った。信頼を失い、職を失い、友人までも失ってしまった。しかし、私はそれに対して困ることはあれど、悲壮になることはなかった。なぜなら、信頼を培うのにかかった努力も、仕事を続ける意味も、友人と共有してきたものも全て私には「なかった」からだ。私にはもう、この本の正体を明かす以外に生きる意味を見出せなくなっていた。そんなある日、私はあることに気が付いた。

Hitomi.K

13年前

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私の記憶は失われたのではない。 そう。私の記憶は、この本によって蝕まれたのだと思っていた。 だが、それは違う。 私の記憶は、この本とひとつになった。 そして私も、この本とひとつになった。 この本の正体は… 「買わないなら、帰ってくれないか」 古本屋の主人の苛立った声に、我に帰った僕は慌ててその本を買った。 つい読みふけってしまったようだ。 少しだけ違和感を覚えながら、僕は家路を急いだ。

Hamaar*

13年前

- 完 -