雨音が

それは蒸し暑く汗で髪がベタベタと肌にへばり付くような梅雨の終わりの時期に起きた不気味な出来事だった。 俺は仕事の都合で地方の温泉旅館を転々と回り、寝泊まりをしていた。 その時回った旅館の一軒で起きた出来事である。 山間部は夕方になるといつも雨が降り、その日も早々に観光地の巡回を切り上げ予約していた宿に戻ろうと思っていたのだが、接待を断り切れずに帰りが遅くなってしまった。 「参ったな。酷い雷雨だ」

seiryu

11年前

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宿には遅くなると連絡していたはずだった。宿のある場所辺りは街灯もなく、その先の宿も真っ暗だった。 「お客さん、ここでいいんですかね」 地元のタクシーの運転手も首を傾げている。確かに宿のある住所にタクシーは向かったのだ。たどり着いたら暗闇しかない。 「間違えてませんよね」 「そのはずですが」 すると、タクシーの前に暗がりにぼんやりと人影が見えた。和服の女性が和傘を持っているようだ。

11年前

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女性が近づいてきたので、運転手が窓を開けた。 直後に稲妻。耳を聾する雷鳴が轟いた。 運転手が、うわ、と情けない声を出す。俺も思わず首を竦めたが、その女性だけは雷など聞えないかのような平然とした態度で車の中を覗きこんだ。 「もしや、横田様でしょうか」 猛る雷雨の中、不思議なほどよく通る声で尋ねる。俺が返事をすると、女性は宿の名を言った。 「この雷で停電しまして。ご案内いたします。どうぞ」

misato

11年前

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女性が宿名も予約名も知っていたことであっさり警戒を解いた俺は、不安げな顔をする運転手をよそにタクシーを降りた。 「あそこでずっと俺を待ってたんですか」 渡された重量感のある和傘をさし、女性の後ろをついて歩く。 「はい。横田様が迷わぬようご案内するように言われております」 ……まただ。 傘を乱打する雨粒を縫うようにして、女性に纏わる音はきちんと耳に入ってきた。声は勿論、下駄や衣擦れの音まで。

Risy

11年前

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だがその時の俺は違和感など感じる事なく、職業柄よく通る声なのだろうとしか感じていなかった。 目の前では和傘を挿し、雨で濡れた砂利道をうっとうしそうに歩く女性に、安心感すら覚えていた。 だが女性の後を追って歩いて、もう随分と経っている。 流石に歩き疲れて来た俺は、女性に声を掛けた。 「宿まであとどのくらい歩きます?」 そう声をかけた後すぐに、また雷鳴が轟いた。そして女性は和傘を挿したまま振り向いた。

anpontan

10年前

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「あともう少しですよ」 その時一瞬薄ら寒いものを感じた。雷光に照らされた女性の表情が、酷く冷たいものに見えたからだ。 「あ、ああ…」 もう少しとはどれ位?それさえ聞けず、俺は和傘の柄を握るしかなかった。 「…雨はいいものですね」 女性の通る声が、また響いた。 「こうして降りしきる水滴の暖簾の内にいつまでも居たいと…そう思いません?」 幻想的。こんな重い闇の世界が? 「お、俺は……」 喉が、乾く。

いのり

10年前

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女性が自らの和傘を畳み、放り捨てる。しかし、それが着地すべき地面は女性の足元にはなかった。 数歩先、和服の女はガラスの地に立つように浮いている。 は、と気づけばいつの間にか俺は断崖の端に立っていた。 パラパラと踏みしめた小石が落ちる。 谷底かなたには轟々とした水音が聞こえてきそうな激流。 「さあ、あと少しですから。お進み下さい」 女が俺を手招いている。 雨は一層強く打ち付けてきていた。

ミズイロ

10年前

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引き込まれる...俺は足の裏に力を入れ耐えた。 何故? すると女は、 「私達遊女は皆な恋しい男を待っているのです。雨の日にしか逢えない。だからこうして雨を降らせて、来るのを...」 稲妻が走った。 ゔっ...見ると断崖の底から白く細い腕が何十本も突き出し俺の足を掴んで谷底の激流へと引きずり込もうとしている。 もう、耐えられない...その時後ろから叫ぶ声がした。 「お客さん!危ないっ!」

blue

10年前

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それは先ほどのタクシーの運転手だった。 さっきからどうもあのお客さんのことが気になって仕方が無い。その後お客さんを見かけたのでついてきたらこうなっていた、らしい。 運転手は俺の腕を引っ張った。すると、腕は諦めたのか降りて行った。 「あの人はこの崖から落ちた女なんだ。さっきの腕も全部この崖から落ちた人たちのものでね。お客さんもあとちょっとであれの仲間に入っていたよ」 雨はいつの間にかやんでいた。

1106

10年前

- 完 -