森崎くんは悩んでいました。 このあんぱんを、八田先輩に譲るべきか、譲らざるべきか。 あんぱんは、森崎くんの大好物です。 しかし、八田先輩は文芸部の先輩で、彼女のあんぱんへの愛は、森崎くん以上です。 しかも、今日の購買部にあんぱんは残っていません。 まだ食べられていないあんぱんは、森崎くんの持つ一個だけ。 八田先輩は、今日のあんぱんをゲットできず、かなり落ち込んでいる。 森崎くんは迷います。
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(ど、どうしよう…。あんなに意気消沈する先輩を見るの、初めてだ) あんぱんのためなら、ただならぬフットワークを発揮して購買に来る八田先輩。 いつもは元気百倍の姿が今はその場から立ち上がれないでいるのです。 僕と同級生で、同じく文芸部の上橋さんがその背中を慰めています。 僕は良心の呵責に耐えかね、あんぱんを譲る意思を伝えに行こうとしたのですが。 「待った森崎!そのあんぱん八田にやるなよ」
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そう言ったのは、先輩と同期であんぱん紳士の原先輩。ちなみにあんぱん紳士の称号は、仲の良い幼馴染のアイデアで付けられたそうです。 原先輩は言いました。 「あんぱんは須らく万人に等しく食されるべし。それが暗黙のルールだ。だから...」 八田先輩に視線を移します。 先輩は諦めきれずに、通り過ぎる生徒からあんぱんを乞いていました。 「あいつは負けた。あんぱんを食う資格はお前にある。お前が食うんだ」
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(そんな……あんな状態の八田先輩を前にしてあんぱんを食べろだなんて……) 普通人の森崎くんに、それは鬼の所業に思えました。 (かといって……) あんぱん紳士の前で下手な同情心など見せては、最悪、鼻腔からあんぱんを食す羽目になるやもしれません。 正に万事休す。 その時、森崎くんは天啓に打たれました。 「原先輩、僕と勝負しませんか。先輩が勝てば僕が、僕が勝てば八田先輩が、あんぱんを食べます」
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「いいけど、何で勝負をするんだ?」 「そうですね…早食いとか…」 「あんぱんを?」 勝負であんぱんを食べてしまったら元も子もありません。 「焼きそばパンならあるよ」 横から現れたのは足立先輩でした。足立先輩は勝負のジャッジまで引き受けて下さると言います。 「足立…!?お前には悪いが、この勝負負けられなくなった」 八田先輩にあんぱんを渡すため、森崎くんと原先輩との真剣勝負が始まるのでした。
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こんなの本当に購買にあったっけ?と首を傾げたくなるほどの巨大焼きそばパンに、二人はかじりつきました。 猛烈な勢いでパンと麺を咀嚼しながらも、まだ両者の会話は続いています。あんぱんを愛する者は目と目で通じ合えるのです。 (森崎…勝ってもお前があんぱんを食えるわけじゃないのに。なぜそこまで?) (さあ? 先輩なら分かると思いますが) 原先輩の背後では、足立先輩が祈るように胸の前で指を組んでいました。
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原先輩は口の周りを拭きながら言いました。 「お前には負けたよ。でも、本当にいいのか」 森崎くんは白目を向いた八田先輩を一瞥して、力強く頷きました。 八田先輩ほど、あんぱんを愛している人はいない。あんぱんも、一番愛してくれる人に食べてほしいはず。 そう伝えると、原先輩はやはり理解を示しました。 しかし、恐ろしいことに、足立先輩は耐えきれず、こっそりあんぱんを食べてしまっていました。
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「ご、ごめんなさい、わ、私、つい、耐えられなくて…」 足立先輩は言葉を震わせ、涙を浮かべていました。 「先輩!何て事をしてくれたんですか!せっかく僕が…」 と言いかけたその時、原先輩が森崎くんの肩に手を掛けました。 「森崎、悪いのは彼女じゃない。目の前にあんぱんがあれば、食べてはいけないと分かっていても食べてしまう、それが抗うことの敵わぬ自然の摂理というものなのだ…」 「くっ…」
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森崎くんはあんぱんの魅惑に罪深さを感じつつ、「すみません...!あの粒粒とした餡を想像をしたらっ!」「いくら幼馴染でも、それは聞き捨てならない!こし餡こそ至高!」と先輩たちが騒ぐ中、 上橋さんに運ばれている八田先輩の「白餡...」という声を聞き逃しませんでした。 後日熟考の末、僕は何餡でも好きです!と原先輩に告白した森崎くんが、鼻腔からあんぱんを食べさせられそうになったのは、また別の御噺。
- 完 -