鳥族の青年は、白い翼のせいでよく天使と間違われた。森の奥の湖で水浴びをしている時に近づいてきた少女も、彼を神の御使いと信じて願い事を述べた。 「弟に会わせて。去年、ここで溺れたの」 その事なら青年も知っていた。木の上で一部始終を眺めていたのだ。とても恐ろしい出来事だった。 「どうかお願い」 金の髪を揺らして少女は懇願する。 あの後、一家は逃げるように森を去ったはずだ。まさか再び避暑に訪れるとは。
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しかし、困った。 青年は鳥族であるが、天使では無い。 少女の願いを叶えることができない。 正直に、伝えようか。 その願いを叶えることはできない、と。 「お願い…どうか…どうか」 少女の青い瞳が、涙を零す。 夏の木漏れ日が、きらきらと照らす。 それは、あまりにも美しい。 青年の唇が、言葉を紡ぐ。 「何を言っているの、ねえさん、ぼくだよ。ぼく、天使になったんだ」 偽りの言葉を、紡いだ。
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少女は目を見開いて、青年に近寄ろうとする。 湖の水紋がいくつも重なった。 「ああ、こんなことがおきるなんて! ……神さま……!」 金の髪は風にそよぎ、哀しみの青は晴れた空のようだった。 「ねえさん、ぼくは大丈夫だから」 ねっ、と偽りの笑みを浮かべる。 これが本当に正しい対応なのかは、わからない。 けれど──美しいものは、美しいから。
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「きっと、いえ、絶対そうだと思っていたのよ。あなたが暗い水の中で沈んだきりだなんてあんまりだもの」 少女は手を伸ばし、青年の手をとろうとする。けれど、青年は湖の奥の方まで入り込んでいて、決して届く距離ではなかった。 「お願い、もっとこっちに来て、あなたのことを抱きしめてあげたいの」 狂おしそうなほど熱い少女の瞳からは、兄弟という絆よりも、もっと深いもので結ばれていたかのような妄執が感じられた。
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狂愛に気圧されて、動けない青年。その間にもじりじりと滲み寄らんばかりの少女。ここは何か策を打たねば、そんな風に思った。 「来ないで!」 腹の底から力を込めた拒絶。少女は傷付いた顔を見せた。 「ねえさんと、ううん。もう人間とは触れられないんだ……天使だから」 言葉を選びながら、目頭を熱くするよう意識しながら紡ぐ。聡明な少女はそれだけで悟ったようだ。 「そうだったの。もう抱きしめてあげられないのね」
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暫しの沈黙。哀れな妄執から解き放たれたかに思われた少女。しかし、再び顔を上げると、そこには新たな狂気が芽生え、爛々と輝いていた。 「それなら私も、あなたと同じ、天使になりたい」 ここで果てたなら、きっとまた神様は哀れに思って、掬い上げてくださる。そうしたらまた、抱き締めてあげられる筈。 鳥族の青年はぶるり、翼を震わせた。 こんなことになるなら、さっさと真実を告げておくのだった。
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一歩、また一歩と、少女は湖に足を踏み入れていく。 「ねえ……いいでしょう?」 夏の陽射しにきらめく水面が、少女の狂気にじわじわと染められていくように思えた。湖は深い、ああ、それ以上入ったら。 その時だった。 ──ねえさん。 青年の声ではなかった。瞬間、少女はその青い瞳をいっぱいに見開き、驚愕の表情を浮かべる。その顔から、狂気はぱたりと消えていた。 ──ねえさん、死なないで。 声の主は見当たらない。
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──いつもあなたを見てる。いつも、そばにいる。 これが天使の声──青年は、光る水面のように優しい声が湖に充満するのを、心地よく聞いた。 少女は空を仰ぎ、涙を流した。そして、 「あぁ私ったら……ごめんなさい …ごめんなさい」 雲間から漏れる光に、語りかけた。 青年はその隙にここを離れようと、翼を羽ばたかせた。 少女はその音に気づいたけれど、こちらを見ることはなかった。姉弟の対話は、続いていた。
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飛び去った鳥族の青年は、その後に少女が何を話しどうなったのかはわからなかった。この罪悪感が更に大きくなることが怖くて、知らないままでいたかったのだ。 その後も湖に水浴びしに行ったが、少女を見かけることはなかった。 やがて忘れずとも、この時の感情は薄れていった。 鳥族の青年は、今でも天使に間違えられる。 最近は、金髪の子どもが祈りに来るのだ。 「天使さま、ありがとう」 開かれた青い瞳は、美しかった。
- 完 -