桜墓標

木が茂る中ひっそりと建つ大きな大きな和風屋敷。私が産まれるまでの6年間、父と母と祖父とそこに住んでいたと言う。 私はそこに行ったことはなく、またそんなところに住んでいたことも今迄知らなかった。 春には中庭の大きな桜が咲き誇るらしい。 父も母も祖父も亡くなり、私が中学を卒業した頃、そこへ行こうと、 静かに兄は言った。

ハイリ

12年前

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暦の上では既に春。でも、まだまだ冬の寒さが厳しい早朝に、私達は小さなナップサックに数日分の下着だけを詰め込んでバスに乗り込んだ。 誰も乗っていないバスの一番後ろの席に、兄と私は拳二つ分程離れて座った。 無口な兄は案の定黙ったままで、じっと流れ行く風景を見詰めている。兄が何故急にあの家に行こうと言い出したのか、私は尋ねる事はせずに、一人考えていた。 風景はいつか春の準備を整えた畑に変わっていた。

真月乃

12年前

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なにかをたどるように見ていた兄は時折、私が迷子にならぬようにと、あそこは、ここは、と語りかけ始める。 ただ同じ思いを、重ねることが出来ない自分がもどかしい。 バスは吐息を吐いて止まった。 降り立つとさすがに風が冷たい。バスがまた重い腰をあげて去っていく。すると視界は開けた。 あそこだ!ほら、ここから見える! 兄が指さす先を見上げた。 私はやっと出会えたその場所になぜかほっとした。

12年前

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ひたすら和風屋敷を目指して進む。 周りに家は無く、あたり一面木が茂っている。 歩く時も、兄は口を開くことは無い。 意を決して、一人考えていたことを口にしようとした。が、私が口を開く前に兄が話し始めた。 「なぁ、お前は憶えていないかもしれないけれど…」 私は屋敷に着くまで、兄に沢山の話しを聞いた。 やっと家の前に 着いたと思ったら、背後から声を掛けられた。

FuFu

12年前

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「筧さんのお身内の方ですか?」 見知らぬ人から自分達の名前を聞かされて兄も僕もキョトンとした。 「そうです。筧 繁次郎の孫です」と兄がようやく答えた。 「やっぱり。後ろ姿がよく似ていらしたから」 僕達に声を掛けた人は懐かしそうな目をして兄を見つめた。 「大きくなられましたね。こちらは弟さん?いや、こんな処で立ち話もなんです」 そう言うと僕達を和風屋敷の中へ招き入れた。

Noel

12年前

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屋敷に漂う畳みと木材の匂い。 初めての場所だが不思議な安堵感で満たされた。 「この屋敷は私が譲り受けたんですけどねぇ、今はたまに来て掃除をするくらいなんですよ。」 夏目と名乗る年配女性は、僕らを居間へ通すとお茶を淹れてくれた。 兄は夏目さんの話を聞いているのかいないのか、記憶を辿るように部屋を見渡してばかりだ。 「あの、少しの間泊まってもいいでしょうか?」 上の空のまま兄は夏目さんに尋ねた。

317

11年前

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「勿論ですとも。繁次郎さんもお孫さんの立派になった姿に喜ぶ筈だわ」 夏目さんが出て行って、よく手入れの行き届いた畳にころんと寝転がると、旅の疲れが背中から抜けていくようだった。 「桜が散るまで、ここに泊まる」 脈絡も無しに兄はそう言った。 「え?」 「うちの桜は希少種なんだ。先日、研究機関から屋敷ごと土地を買いたいと連絡があった」 「そして、ここにいる間に爺ちゃんが屋敷に隠した遺言状を捜す」

のんのん

10年前

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急に出かけると言った兄に合点がいきつつも、知らない事実を突きつけられていくようで、居心地は悪かった。 中庭にある大きな桜の木。 名を御衣黄と言うらしい。桜と聞くと真っ先に思い浮かべる、桃色の花弁が咲き誇る様は見受けられない。 兄が祖父の書斎で捜索をしている間、夏目さんにに話を聞こうと思った。土地は祖父名義でも、夏目さんが屋敷を譲り受けたのなら、細かな事情には精通しているだろうと思われた。

aoto

10年前

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しかし夏目さんも何も知らず、私達は成果を得られないままに時間だけが過ぎた。 ある朝、寝惚け眼で障子戸を開けると、薄紅を纏う姿へと変わった花々のほとんどが落ちていた。 堆く積もる桜は布団の様で、包まってみたいという他愛のない気持ちが湧き上がってくる。 期日が迫っているというのに呑気な自分に呆れたが、桜を愛する祖父も、この景色に同じ思いを抱いたかもしれない。 私は急いで、兄を呼びに行ったのだった。

ino

10年前

- 完 -