「酷い」 彼女の人工的な睫毛がぱさと瞬いて、黒い滴を一粒零す。瞼を縁取るアイラインは崩れて、涙に吸い込まれていった。その小振りな唇には蛍光色のような赤がべとりと塗りたくられていて、息の仕方を忘れた魚のように開閉を繰り返している。作られた白い肌に、ほのかに桃色に染まらせていた頬は、今は別の意味で色味を増していた。 また一粒、彼女の頬を涙が滑る。あれもこれもそれも、染み込んだ、涙。 ( 汚えな )
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「勝手に勘違いして勝手に落ち込むのは勝手だが俺を巻き込むな」 また黒い滴が彼女の頬を滑る。ピエロみたいなその姿は本当に醜い。俺も彼女も一応同じ人間であるのに何故こうも違うのか 「かん、ちがい?」 驚愕する彼女は滑稽だ。誰がどうみても彼女の勘違だ。確かに俺は彼女に一度手を出したがあれはただの遊びだった。彼女は醜く俺は美しい。まさに対極で普通なら二人の運命交わらない。女は嫌いだ、醜い女は何より嫌いだ。
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「勘違いってなによ!」 彼女は真っ黒な涙をボロボロ流しながら、ヒステリー気味に叫んだ。 「ちょっと黙ってくんない?もう俺疲れちゃったの」 「あんたみたいな人の気持ちがわかんない人間って最低」 そうだね、俺は君の気持ちなんてわからないよ。 でも君だって俺の気持ちわかってないでしょ? 勝手に俺の気持ちを君が作り出して、それを俺に当てはめて読んで、理解した気になってるだけ。 本当に君は醜いよ。
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これ以上付き合うのは時間の無駄だ。幾ら話しても、彼女の望む言葉は出てこない。尤も、この女が今何を望んでいるのか、正確なところはわからないんだが。 俺は彼女に背を向けかけた。 「待ってよ! 逃げるの?」 怒声が飛ぶ。醜いだけでなく、うるさい女だ。構わず行こうとすると、服を掴まれ引き戻された。 「放せよ」 身を捩り、向き直った瞬間。いきなりバッグで顔を叩かれた。金具の部分が口元に当たり、血の味がした。
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──気を失っていたらしい。気がつくとベッドに横たわっていた。あの後、さらに三発バッグで叩かれた所で記憶が途絶えている。 「ごめんなさい」 目を開けると彼女が見下ろしていた。醜く崩れていた化粧は既に修復されている。 「あなたの綺麗な顔を傷付けてしまうなんて。私、どうかしてた」 何を言われようと俺の気持ちは変わらない。そう言おうとして口にガムテープが貼られていることに気付いた。 手足も、動かない。
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「そんな目で見ないでよ。」 完全メイクで造られた顔で、彼女が微笑む。 なんだ?この状況は‼︎何を考えてるこの女は‼︎私どうかしてた、だと?今だってどうかしてるだろうが! なんとか手足を自由にしようともがくが、キツく締められたビニール紐が手首に食い込むだけだ。 「ねぇ、勘違いだなんて…違うよね?あなたの綺麗な口からそんな言葉が出るなんて…ああ、悪いお口は塞いでおいたわ。」 彼女が醜く笑う。
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彼女はゆっくりと口に貼られたガムテープを剥いでいく。これで喋れる。 「私って裁縫得意なの。でも人間の皮膚、それもあなたの綺麗な口を醜くしないように縫うのは大変だった。ほら、鏡を見て。口を閉じてるだけに見えるでしょう?」 醜い顔がさらに歪む彼女は、甲高い声で笑い始めた。 「お腹空いたら栄養ドリンク飲ませてあげるから餓死する事はないわ」 ストローより細い管を取り出し僅かな唇の隙間にそれを差し込む。
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女は嫌いだ。醜い女は大嫌いだ。俺は美しくて、勝ち組だったんだ。 「そうね。洋服も、その顔も、全部私色に染めてあげるわ。他になにもいらないくらいに。ううん、私とあなた以外、この世界には必要ないものね」 厚くするしか能がない彼女の筆が俺の頬に触れる。 もうやめろという声も届かない。喉の奥でくぐもった息だけが情けなく漏れる。 「ふふふ、ふふふ。楽しいわ。私だけの世界。ふふふ、あはははははっ」
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狂ってる。そう思った。 何故こんな事になってしまったのか、訳も分からず俺は女のなすがままになるしかなかった。 ちくしょう。 これだから醜い女は嫌いなんだ。 笑う女の口角から、ピシピシと亀裂が走り化粧が崩れていく。 この女は、泣いても笑っても美しくはなれない、憐れな存在。 そんな彼女の人形になりながらも、思うことはただ一つ。 (ああ……汚ねえな) 届かぬ声で、呟いた。
- 完 -