「ねぇ、私の秘密教えてあげよっか?」 そう言って彼女は、ふふっと笑った。 またいつもの悪い癖だ。 彼女は昔からイタズラを思いつくと、本当に楽しそうに笑う。 それが分かっていて、つきあう僕もたいがいだが。 「あまり気乗りしないけど、一応聞いておくよ。」 彼女はゆっくりと僕に近づくと、内緒話をするように耳元に顔を寄せた。 目の前に流れた彼女の黒髪から、リンスのいい香りがした。
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「私ね、風になれるの」 彼女はまた、ふふっと笑った。 僕も微笑み返した。 昨日は」雨にあたると死んでしまうの」と言っていた。 「素敵だね。風になればどこへでもいけるじゃないか」 僕の返事に彼女は嬉しそうにまた笑い、ふと真剣な顔になった。 「でもね、大きな建物なんかがあるとね、体がどんっとぶつかって体中痛いのよ」 「そうか。君は大変だね」 僕もかなり大変だよ。
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空想癖がある、と言えば赤毛のアンみたいで可愛げがあると言えなくもないのだろうが、彼女の場合はもう少しややこしい。 空想に深く入り込むと、彼女の中で現実との境界が完全に取り払われてしまうのだ。 「雨に当たると死んでしまう」と言っていた昨日は、偶然にわか雨に当たって気絶してしまった。放っておいたら本当に死んでしまったかもしれない。 そして今日は、風のように軽やかに走り出しては壁に衝突している。
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痛い痛いと大泣きする彼女を介抱するのが僕の役目だった。怪我は大したことがない。昨日のように病院の世話になる必要はないだろう。傷口に消毒液をつけ絆創膏を貼ると、僕は彼女に優しく歌いかけた。 「痛いの痛いの、飛んでいけー」 そうして空を見上げた。雨上がりの空には虹がかかっていた。彼女もつられて空を見上げる。 妄想癖が強いということは、暗示にもかかりやすいということだった。 「あれ? もう痛くないよ!」
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「痛いのは、虹の向こう側まで飛んでいってしまったよ」 頭を撫でられてじっとしていたのも束の間、彼女はまた一目散に駆け出して行ってしまった。 「どこいくのー?」 あっという間に離れていく。 「虹の向こう側!痛いのが虹の向こう側の別の誰かにぶつかったら大変よ」 やれやれ余計なことを言ってしまったものだと、僕も遅れて走り出す。 僕らは風のように虹の向こう側を目指した。
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「ほら、やっぱりだわ!」 虹が消えたと同時に、彼女は興奮の色を濃く浮かべながら上気した顔で僕を見た。 虹の向こう側──だと彼女が定義付けた場所──では、足を挫いてしまったお婆さんが途方に暮れている。 まんざらでもない偶然を僕は不憫に思うばかりだが、彼女は飛ばした痛みが他人にぶつかったと思い込んでる。 仕方ないか。空想しない彼女なんて、僕の好きな彼女じゃないから。 「お婆さん大丈夫ですか?」
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「あらあら、お若い方達ありがとう。いえね、お散歩をしていたら突然壁にでもぶつかった様な感じがして、その拍子に転んでしまったんですよ。挫いたつもりはなかったのに突然痛みが。まるで空から降って来たみたい。歳とるといやね」 僕はお婆さんの言葉に耳を疑った。 いやいや、これは単なる偶然のはずだ。僕は自分に言い聞かせたけど、その横で彼女が突然頭を下げた。 「ごめんなさい。それ私の痛いの痛いのなんです!」
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「あら、そうなの?お嬢さんは大丈夫?」 「私は大丈夫です。でも、お婆さんが痛い思いをしてるから…」 彼女はしゅんと項垂れてしまった。 しかし、僕は唖然とするしかなかった。 彼女の痛いが他人に飛んでいくなんて思ってもなかった。 もしかすると、僕たちが気づいてないだけで、誰かの痛いを受けているのかもしれない。 それより、今はお婆さんを助けてあげないと。 「お婆さん、僕の背中に乗ってください」
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「ありがとうね」 そしてお婆さんは落ち込む彼女に対し、更に言葉を続けた。 「痛いの飛ばしちゃうのもお互い様よ。お嬢さん達がこうして蒔いた親切の種は、きっと『幸せ』になって帰ってくるわ」 「じゃあ幸せを見つけてあげなくちゃ!1人ぼっちじゃ可哀想よ」 お婆さんの言葉に、彼女はいつもの調子を取り戻す。風のようにふわりと身を翻すと、僕に向かってふふっと笑った。 ──やれやれ。僕もたいがいだ。
- 完 -