ダスト

歌が聞こえる。 蜜蜂の繊細な羽根のささやきに似た歌声がケイを呼んでいた。 路地裏の糸がほつれあったような細い道をたどって行く。 窓から窓に吊るされた洗濯物がはためき、様々な配管が血管のように壁に張り巡らされてある。 ここは、何処にも行き場がなくなった人や物がたくさん棄てられている場所だ。 不意に、建物に切り取られた小さな空間から黄金色の夕陽が射し込んだ。 天国みたいだと、ケイは思った。

sabo

10年前

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必要とされてるものがたくさんある世界は、ケイには惨めで苦しいだけだった。 必要とされないものしかないここでは、孤独も劣等感も感じない。 歌が聞こえる。 声に導かれ細道をすり抜ける。 開けた場所に出た瞬間ケイは息を呑む。 辺り一面に広がったムスカリが黄金色の夕陽を浴びてきらきらと輝く。 そこで一人歌っている美しい少女。 艶やかな髪が花と共に風に流れて。 死んでもいい、とケイは思った。

紫乃秋乃

10年前

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歌声が途絶えた、と気付いた時には、既に陽が沈み、代わりに月が顔を覗かせていた。 微かな月明かりが照らす空間に、我に返ったケイは声を上げそうになる。 少女のいた場所には、ムスカリの鮮やかな色の見る影もなく、ただ瓦礫や粗大ごみが積まれているだけだった。 ──まるで初めからそうであったように。 あの少女は、必要とされない自分が救われたくて見た夢や幻だったのかと、ケイは思った。 ──本当に?

流され屋

10年前

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「街の子だね」 不意に声を掛けられて心臓が高鳴る。いつの間に現れたのか、背後に老婆が立っていた。 「見れば分かる。ここらの子は皆、小汚いからね」 黙って俯くケイの頭に、老婆はポンと手を置く。 「逃げてきたのかい。大丈夫、追い出したりしないよ。来る者は拒まない、ここはそういう場所さ。……見てごらん」 月明かりの下、瓦礫の陰からみすぼらしい身なりの少女が現れた。 「あの子も、お前と同じさ」

hayayacco

10年前

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少女は一瞥を投げて、ひらりとどこかへ消えた。 「捨てられるくらいなら、こちらから捨ててやる。あの子はそう言ってたね」 お前も好きな場所を見つければいい、と老婆は言い残して去っていった。 瓦礫の山を崩さないようにそっと歩く。 時折、隙間から光る目がこちらを覗いていた。 ケイは幾分か歩き、小さな花が咲いている近くに腰を下ろした。こんな所にも花は咲くのか。夜風が優しく花を揺らす。 「ねえ」

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あの少女だった。瓦礫の隙間からは、静謐な喧騒が漏れ出ている。きっと、少女が代表としてケイと話しているのだろう。 「あなたは捨てられたもの?捨てたもの?」 「僕は、捨ててもいいと、そう思ったんだ」 ケイは言葉が出るたびに、喉がぺたぺたと乾いていくのを感じた。 「間違えちゃいけないわ。ここは、ハザマ。物と物、時と時、記憶と記憶の狭間なの。恵まれた人にとっては、死よりも恐ろしいものだわ」

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僕は、僕が恵まれているのか、分からない。 少女はゆっくり、僕の発するものに頷いていた。 恐らく、音にすらなっていない僕のそんな想いを、一つ、一つ丁寧に拾うように。 答えの無い空気が、僕と少女の間にある境界を明確にしていく。 「ねえ。これ、持って行ってくれる?」 不意に預けられる言葉。 「この子はね、夢を見ているの」 少女の差し出した手の中で、小さな鉢を泳ぐ金魚。 「空へと落ちる夢を」

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金魚は上へ泳いでは下へ泳ぐ。 ゆらゆらと揺れる尾鰭は幻想的でそれこそ夢のようだった。 「こんなところでは餌をあげられない」 「大丈夫よ。あなたの気持ちが餌になるから。あなたの想いに応えてこの子は姿を変えていくわ」 金魚を見るとその通りだと言うように一回転をした。その美しさに目眩がしそうだ。 「どうして僕にこれを?」 「この子とあなたの命を捨てたくないから」 彼女はくるりと身を翻し、暗闇に消えた。

ハイリ

9年前

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捨てに来たはずなのに代わりに託されるだなんておかしな話だ。まるで、僕が必要とされているみたいだ。 ケイは瓦礫の上に腰掛け、夜空を見上げた。闇の帳に零れた無数の星屑が輝いている。 損なったものは二度と同じ形に戻れない。少女の語った狭間の意味とは、捨てることへの問いかけのようなものではなかっただろうか。ケイは手元の金魚に微笑みかけてみる。 「空に落ちる夢はどうだった? 僕が見た夢は素敵だったよ」

aoto

9年前

- 完 -