普段よりもさらに照明が暗いせいで、皆とはぐれてしまった。 友達数人と来た真夏の夜の水族館は、冷んやりと青い空気に満ちている。 いつもと違った静けさの中、遠く果てから聞こえる、巨大な水槽を維持するための低い機械音。 一番大きな吹き抜けの水槽の前で、僕は腰を下ろした。迷子はその場を動かない方がいい。閉館間際になれば、誰かが僕を探してくれるだろう。 大きなエイが、僕を笑うように目の前を横切った。
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エイを追いかけるように水族館の職員だろうか。ダイバースーツを着込んで泳いでいる。その光景がまるで人魚が戯れているようで僕は思わず水槽に近付いた。 ダイバーは僕に気付いたのか手を振った。そしてジェスチャーで何か伝えようとした。 魚を指差し、両手でハートを作る。 魚は好きかって意味だろうか。僕は二度頷いた。ダイバーは笑って自身を指差しうなずく。 「"私も好き"」 そう言っているようだった。
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月明かりが差し込んで、巨大なアクリル水槽は幻想郷になる。 優雅に泳ぐ魚は人魚のように軽やかで、小魚の絨毯が瞬く間に翻る。僕の頭上が暗くなる。ジンベエザメだ! 海底はこれまた宝石でちりばめられていた。ヒトデの張り付くいわおの間隙を悠々過ぎる魚たち。 水槽が幻想郷たり得た理由には、クラゲがいたこともある。ただただ美しい。 ダイバーがフィンをこなれたように使いながら、僕の目の前にやってきてくれた。
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ダイバーは僕を見つめると首を傾け、人差し指で数字の1を表した。 『君はひとりかい?』 そう言いたいのだろう。彼から吐き出された水泡がキラキラと輝きながら上がってゆく。 「友達とはぐれてしまって….」 思わず声に出してしまったが、水中にこの声は届かない。アクリルに両手をついて首を横に振り否定を表すことしか出来ない。 しかしダイバーは、何度か頷くと水泡と共にスーっと上まで上がっていった。
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ダイバーが消え、再び誰もいなくなった。僕と海の生き物の間には透明な隔たりがあり、彼らは僕の存在など構わず自由に生きている。 ウミガメが物知り顔で通り過ぎる。その前をナポレオンフィッシュが尊大に横切った。奥でマンボウが寄る辺なく漂っている。万華鏡のように移り変わる水槽を眺めて、どれくらい経っただろうか。 またダイバーが近付いてきた。今度は幾重にも魚に取り囲まれている。その姿はとても賑やかだった。
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沢山の魚に囲まれたダイバーの姿は とても綺麗で僕は暫く見惚れてしまった。 その後、友達が僕を見つけてくれて、その日は無事に終えることができた。 けれどもその日を境に、僕はこの水族館のリ ピーターになってしまっていた。 ある日、水槽の前に立っていると不意に肩を叩かれた。振り返ると髪をポニーテールで結った女の子が居た。 「君、最近よく来るね。いつも水槽の中から見てるよ」 あのダイバーだった。
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この時の僕はかなり緊張していたんだと思う。 「あっはい!僕もあなたを水槽の外から見てます!」 言ったとき、かなり後悔した。これじゃストーカーみたいじゃないか。恥ずかしくて水槽の方に向き直る。目の前にはすっとぼけたような顔をしたマンボウがふよふよと泳いでいる。なんだか馬鹿にされている感じがする。 「あはは!面白いねえキミ!良かったら一緒に回ってみない?」
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言われるがままにウェットスーツを着込む。少しゴム臭く、体がピッチリ包まれる。 人気のいない時間を見計らい、ダイバーさんは僕を水槽の中に招いてくれた。 「夜の水族館が一番好きなんだ。ライトアップされた魚たちと泳ぐのは夢を見ている気分になる」 淡い緑の照明が魚たちの影を作り、水面を輝かせる。揺れる金色の波は、幻想世界への入り口にも見えた。 好奇心旺盛なイシダイが寄ってきて口をパクパクさせる。
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「き、れい・・・。」 僕は息をのんだ。 光が反射して水面が七色に輝く。優雅に泳ぐ魚たち。なんて幻想的なんだ。 ウェットスーツから感じるひんやりと冷たい感覚に身を震わす。 「さぁ、行こうか。」 ダイバーさんは僕の手をゆっくりと引く。ゆらゆらと揺れる水面に飲み込まれるように僕は水の中に行方を眩ませた。 僕たちを取り囲む魚たち。まるで僕自身も魚になったような感覚だった。
- 完 -