大晦日の訪問

甚右衛門は薄い茶を飲みつつ溜め息をついていた。正月も近いというのに餅を買う銭もないのだ。 かつてはそれなりに繁盛していた道場も、流行りの流派に押されて弟子がつかなくなり、今は娘の多江が稽古を続けるのみである。そろそろ婿取りを考えなければならないが、さて誰に相談したものか… 「父上」 不意に声を掛けられ、甚右衛門は茶を噴き出して咳き込んだ。 「…なんだ、騒々しい」 「父上、道場破りが来ています」

hayayacco

12年前

- 1 -

多江は緊張し、やや紅潮させた顔持ちで父の言葉を待っている。器量の良さは母親に似たものだが道着姿ばかり見ているせいか、もう少し娘らしく育てておればと思う事も少なくなかった。 「道場破りと言ったか」 「間違いありません。それも二人の様です」 甚右衛門も剣を極めた剛の者、大抵驚きはしないが道場破りが二人と聞き、落ち着こうと口にした茶をもう一度噴き出さないよう努力した。 「着替えの用意を」 「はい」

tuzura

12年前

- 2 -

甚右衛門は支度を整えつつ、また溜め息をつく。こんな年の瀬に道場破りとは、一体何処の浪人崩れだろうか。 しかしいざ道場に出てみると、甚右衛門は再び驚いた。茶があれば今度こそ噴いていたかもしれない。 娘の多江でさえ知らぬことだが、甚右衛門はかつて藩の剣術指南役として食い扶持を稼いでいたことがあった。それを知る人物が、道場破りとして訪れていたのである。 「伊藤甚右衛門殿とお見受け致した」 「如何にも」

lalalacco

12年前

- 3 -

「お初にお目にかかります。それがしは備前池田家中、長岡十兵衛と申します」 「同じく原田左衛門」 甚右衛門は訝った。 二人の若者は初対面だが何処と無く面影に見覚えがある。 古い記憶を辿りつつも二人の力を測る。 道場の中央に居住まいを正すその姿、微かな動きから二人が神道無念流の使い手とみた。 (居合いはない) 甚右衛門は油断なく相対した。 「して池田様の御家中の方が道場破りとは尋常ではありませんな」

nyanya

12年前

- 4 -

「無礼は重々承知の上。是非、お手合わせを御願いしたい」 十兵衛は深々と頭を下げた。 道場破りにしては随分礼儀正しい者だと感じた甚右衛門は、見を解き、一言こう呟いた。 「…お引き取り願いますかな」 すかさず左衛門が口を挟んだ。 「負ける事に恐れを成したか!」 だが甚右衛門は、顔色一つ変えず応えた。 「この道場は近々閉めようかと考えておる。看板が欲しければ、門の所にある奴を御自由にお持ち下され」

hyper

11年前

- 5 -

「そういうわけにはいきません」 二人の声が重なり、一瞬恥ずかしそうに顔を伏せた。 十兵衛が口を開く。 「実は私共は貴方の娘を好いておりまして、道場を貰い受けた上に多江さんを嫁に…」 左衛門が後を引き継ぐ。 「もちろん、十兵衛殿と私は後ほど決着をつけます。貴方に勝つことで晴れて多江さんに思いを告げる所存」 甚右衛門は頭を掻いた。 「しかしそれには多江の気持ちというものがないではないか」

terry

11年前

- 6 -

力技が過ぎる。これも流派がなすことだろうか。 「父上、私のことは構いません」 背後で多江の声が聞こえた。 「私も武門の端くれ。強い男が好きでございます」 その勇ましさと潔さに、甚右衛門は苦笑を浮かべるしかなかった。やはり、育て方を間違ったか。 池田家中のものへ嫁に出すとなれば、人目もつく。道場破りの上の婚姻などと、荒々しい経緯を持たせたくはなかった。 「御家中殿、道場ならば喜んで差し上げます」

aoto

10年前

- 7 -

「いや、しかし──!」左衛門が異を唱えるが、十兵衛がそれを制した。 「大変無礼仕りました。某(それがし)どもは好いたおなごを如何にして手に入れるか…その一念しか御座いませんでした。」 十兵衛が深々と頭を下げ、多江へと視線を向けた。 「強い男なら誰でも良いのですか?多江殿、本当のお気持ちを仰って下さいませ」 「…申し訳ありません。やはり撤回しとう御座います」 先程まで凛としていた多江が頰を染めた。

10年前

- 8 -

「私には心に決めた人がいるのです。ですから……申し訳ございません」 語気を強く多江がそう言うとどうしたことだろうか、十兵衛と左衛門はその場から居なくなっていた。 夜。二人は山に戻っていた。 「残念だったな。もう少しだったのに」 そういうのは茶色い狸。 「まあ仕方が無いことよ十兵衛殿。あの小娘、我らの正体を見破っておったからな。 また好みの女を見つけるまでよ」 そう言って赤い狐は快活に笑った。

Kittle

10年前

- 完 -