「あんドーナツじゃダメなんだ!」 自分の悲痛な叫び声で目が覚めた。続いて聞こえる爆笑。眼前には呆れ顔の先生。 ええと。 ここは教室で、今は4時限目で、俺の大好物はあんぱんで、購買であんぱんは大人気で。 そうか、俺は夢を見たんだ。 俺があんぱんを買う前に、全て売り切れてしまって、あんドーナツしか残っていないという恐ろしい夢を。 改めて身震いした。 そろそろ、4時限終了のチャイムが鳴る。
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先生は時間ギリギリまで黒板を書いているけど、俺は板書を切り上げた。 (くそー、何だこの気持ち!) 妙に気が逸る。どことなく嫌な予感がするのは、夢のせいだろう。 あんドーナツは、過去に一度だけ購買のあんぱんを買い逃したときの苦い思い出だ。 落ち着け俺。そう思いながら教科書を畳んで、ようやく待ち焦がれたチャイム。 俺は急いで席を離れ── 「待ってよ岡本。今日一緒に日直でしょ?手伝って」
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俺にはそんな時間はない! 今すぐ購買に走り、 あんぱんを手に入れなければ…… またあの屈辱を味わうなど 俺には耐えられない! でも日直はしなければ…… その人からの信頼を失うし、 最低な人間だ…… どうすればいいんだ…… 今すぐあんぱんに向けて走るか…… 日直を済ませてしまうか…… 究極の決断が迫られた
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いや、あんぱんだ! 日直の責務よりもあんぱんの方が重い! あんぱんを食えなかった後悔は一生続くんだ! 「飯島さん、僕はあんぱんを取るよ」 「は?」 「午後は全力でやる!だから見逃してくれないか」 「わたし、黒板の上まで届かないんだけど」 「え」 「消せないんですけど」 神よ、この娘に身長を! 「分かったよ、僕がやるから」 ──ちょっと不安だけど 「購買であんぱんを買ってきてくれないか」
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一分一秒足りとも無駄にはできない。数学教師松本がびっしり書き連ねた数式を消すにはかなりの時間がかかる。 「頼んだよ飯島さん!!」 「え、や、岡本!?」 俺は財布を飯島さんに託した。 (ど、どうしよう……) 私は途方に暮れていた。 弁当派の私は知らなかったのだ。 お昼の購買部がこんなにも人がすごいなんて。 百四十八センチの私の前に人垣が立ちはだかる。
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隙間へ入っていけるのは、小柄の役得だなと思いながらも、やっと列の前から四分の三くらいで、パンの棚の前にいるかどうかすら定かではない。 すみません、という声は周りの服に吸収されていく…あ、あんぱん持ってる人がいる。いくら購買を使わずとも、同じものが何個も置いてないのは想像がつく。 岡本の財布を胸の前でぎゅっと握った。 「すみませええん!」 思いの外、大きい声が出て、私はモーゼの気分を味わった。
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「なんだ?」 「小さい子が叫んでた」 「あれは一組の飯島さん」 「たしかに小さい」 焦っていたとはいえ、なんて失態だろう。 私は自分の顔が耳まで赤くなるのを感じた。 (いや!ここは恥ずかしがってなんていられない!) 割れた人垣を通り抜け、私はパン売り場に辿り着いた。 目当てのあんぱんは……アレだ! 私が透明の袋に手を伸ばした時、人影から細い手がぬっと現れ、はっしと袋を掴んだ。 ゴールは同時。
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私が袋を掴んでいる手の先を見ると、そこには一人の女子生徒がいた。 (だ、誰この人?) すると周りから声が。 『あ、あれ確か文芸部の…さんだよね』 『あー、彼女のあんぱん愛ハンパないからねー。あの子も寄りによって同時に掴むとは、かわいそうに…』 私は恐る恐るその人の顏を見た。 すると、何と彼女の目が光ったのだ! (ひいいいっ!) 私は蛇に睨まれた蛙の様に固まってしまった。 (ど、どうしよう…)
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譲りたくない。 そう思ったが彼女の鋭い眼光に負け譲ってしまった。 「フフフ…私の愛に勝てる人は居ないわ…!」 彼女は王者の覇気を漂わせながら会計に向かう。 これでいいの…? 岡本との約束を破るの? そんなのは嫌だ! 私は立ち上がる。 その時あんぱんの妖精が背中を押してくれたような気がした。 そして私は終わることの無い彼女との戦いへ身を投じたのだった──。
- 完 -