私は殺されかけた 実の父親に あれは暑い夏 場所は海 毎年遊びに来ている その年は少し違った そう、母親では無く不倫相手だった あの頃の私は分からなかったけど 父は私をゴム製のボートに乗せ 沖にどんどん向かって行った 「お父さん、彼方は沖だよ!向こうに戻ろうよ!」と一生懸命に話しかけるが まっすぐ前を向いたまま固まったようにこちらを見ようとせず突然立ち止った そして私を乗せたボートをひっくり返した
- 1 -
「お父さん!?おと…っ!おと…さん…!!」 まだ小さかった私は泳げず、もがくことしかできなかった。 お父さんは私を助けようともせず、もがき苦しむ私を感情のない目で見ていた。 もがきながら、なぜお父さんはボートをひっくり返したのか?なぜ助けてくれないのか?なぜ?なぜ?と繰り返し自問自答していたが、とうとう私は湖の力に吸い込まれていった。 その先はなぜか覚えていない。 気づけば病院の白い景色の中にいた
- 2 -
おかげんいかがですか 一体何人の看護婦からこの言葉をかけられたろうか。 しかし私はこの呼びかけに答えたことがない。いや正確に言えば答えられないのだ。 遷延性意識障害 自ら動くことすらできない。 始めの数年は意識すらなかったようだ。 もう時期15の春を迎える。 あーまた睡魔が襲う。 意識が遠のく。 そう、あの湖底に沈んでいくかのごとく。 苦しいはずなのに何故か心地よい、あの感覚。
- 3 -
私は夢を見た。 夢というより、記憶だった。 お父さんは、幼い私を膝の上に載せて絵本を読み聞かせてくれている。 「ねーねー、もっかい読んでー」 せがむと、繰り返し読んでくれた。 「薫はめんこいなぁ」 頭を撫でる優しくて大きな手が好きだった。 夢から覚めると、お母さんがいた。 お母さんは泣いていた。 「ごめんね、全部お母さんが悪いの」 そして、唐突に真実を語り始めた。
- 4 -
私が聞こえていることを知って、というよりは、花と同じ状態の私に、ただ懺悔しているような調子だった。 あの人はお母さんのことが嫌いなの。どうしてなのかはもうわかんない。 でもお母さんはあの人のことが好きでね、今でも好きでね。大好きな人との子供のあんたのことも、本当に大切なの。 薫がいる限り、お母さんは幸せなの。 喧嘩した時にね、お父さんにそう言ったの。そうしたらね、そうしたらね。
- 5 -
あの人の薫を見る目が、私を見る目と一緒になっちゃったの。私のことが嫌いだから私との間に生まれた薫のことも… ごめんね、ごめんね 私が早くそのことに気がついていたら、薫は苦しい思いしなくて済んだのにね。 私が同窓会で家を留守にした日に、お父さんはあなたを連れて海に行って、あんなことを… お父さん、私のことが嫌いになっちゃったんだ。だから、お見舞いもきてくれない。 海に沈んだ時よりも苦しかった。
- 6 -
私はお父さんに何かしちゃったのかな。頭を下げて謝ったら、許してくれないかな。 沖へとゴムボートを進めた日、お父さんは押し殺したような顔で、暗い波の先を見つめていた。まるで言葉をもたない鬼のように。 こっそり夜ふかしをしたせいかな。嫌いな人参を残してしまったからかな。私が悪い子だから、お父さんに嫌われたのかな。 薄い意識の中で、私は暗い湖底にいて、何か得体の知れないものに足を絡め取られている。
- 7 -
ある日、そよ風に乗って、会いたくなかった人が来た。 お父さんの不倫相手。 お母さんはとても驚いて、怒鳴ろうとしたけど、彼女はお母さんの手を取って病室の外へ出ていった。 少しして二人とも部屋に帰ってきた。お母さんも、彼女もとても辛そうな顔をしていた。彼女は病室を出る時に、消え入りそうな声で私に「ごめんね」と言った。 「お父さんがね…死んだって…自殺しちゃったって…!」 とお母さんが泣き崩れた。
- 8 -
私はそこで泣き崩れるお母さんを慰めることもできず、ただただ呆然とすることしかできなかった。 花同然の私は涙が流れず。ただお母さんの鳴き声を聞くことしかできなかった。 もし私が人参を残さなければ、もし私がお父さんと海に行かなければ、もし…私が生まれなければお父さんが自殺することもなかったかもしれない。 黒い波が私を飲み込む。 私はどんどん湖の底に沈んでいき、やがて浮かび上がることができなかった。
- 完 -