いつからだろう。 私は、誰か別の人間の人生を途中から歩んでいるのではないかという奇妙な感覚に囚われることがある。 例えば、無意識にパンに塗るバターを柔らかくなるまで丁寧に練っている時。 友人に、「お前、好きだったよな」とサイクリングに誘われる時。 あからさまな違和感ではなしに、ほんの一瞬の隙間、肌を細い針でチクリとやられるような些細な齟齬感。 仕事帰りの電車の中、そんな事を考えていた。
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どこからだろう。 仮に、別の人間の人生を途中から歩むようになったとして、私は誰かの人生のどこから参加したのだろう。 こうして何気なく乗っている電車は、いくつもの駅で人を乗せ人を降ろし、あるべき場所に運んでいる。電車が誰かだとすれば、人生も自由に乗り降りできるものであればいい。 私は、どこから乗ってどこで降りるんだろうか。 「貴女は次の駅で降りなければ」 背後に立つ男性の声。私に話しかけている?
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貴女、アナタ、ワタシ、私。 私。そうだ、私は、次の駅で降りるのだ。 「ほら早く」 男性の声に急かされて、私は慌てて電車を降りた。月明かりより朧な蛍光灯がチリチリと照らすホームには、私の他に人影はない。 ここはいったい何処なのだろう。 私は、どこに立っているのだ。 毎朝毎夕立ち入る駅の筈なのに… 拭えない違和感に、足元がグニャリと歪む気がした。
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腕時計の冷たい鎖が私の意識を引っ張る。 なんだ、まだ21時前じゃないか。 思いついて実家に電話をかけてみる。6コール目で母が出た。余所行きの「どちら様でしょうか?」。また、針がチクリ。このヒトは、まるきりの他人ではないだろか。 ぼう、としていると、プツリ。電話は切られてしまう。 暗いホームを降りて、改札を通り抜ける。 と、眩しい光が目を刺した。白過ぎるその光は、記憶にない店の看板だった。
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「新光堂」という字が、影絵のように浮かび上がっている。 この店は何だ。 するとその店のアルミサッシの扉が、怪鳥の断末魔の声を上げながらひとりでに開いた。店内はこちら側より雀の涙程度は明るかったが、それではこれが何屋であるかは分かりもしない。 好奇心と使命感に駆られ、私はその店に足を踏み入れた。 薄暗い。ムラのある灯りが不気味さを際立てている。そして静かだ。何処かで短針が鳴っている。
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店の奥の暗がりでカタンと何かが音を立てた。どくりと波打つ心を宥めながら、そろりそろり歩を進める。 奥深くへ進むにつれて、店の様子がぼんやりと見えてくる。高くそびえ立つ棚に所狭しと並べられた雑貨、低い机の上に置かれた綺麗なランプ。見惚れていると、近くから掠れた声が聞こえてきた。 「何か探し物かね」 振り返ると、小柄で白い口ひげの男性が立っていた。驚きながら口を開く。 「私の人生を……」
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「貴女は電車を降りたんだな。時々、そんな客が来る。似た者同士、引き寄せるんかね」 掠れた声には不思議な抑揚があった。自身に言い聞かせるような、それでいて客である私にも問いかけている。 電車を降りた。この店主もかつて体験したのだろうか。思考を巡らせていると、不気味な薄暗さに慣れてきた。 「降りてしまったら何を手に入れたら良いでしょうか」 私の問いに店主は暫く思案した後、店内の棚から何かを探し出した。
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店主に透明な液体の入った小瓶を手渡された。手のひらに収まる小瓶はコルクで栓をされていた。 「これは…?」 光にかざそうと手にとった瞬間、頭の中に記憶が蘇る。 日常の少しだけ噛み合わない感覚 チクリ 母親との会話。 チクリ 不思議なことに痛みの度に液体の量が増える。 「全量に満ちた時にようやく私の人生を手に入れた。透明な液体は反応し光を放つ。貴女の人生を生きる役に立つはずだよ」
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小瓶を落としてはいけない気がした。チクリ、チクリ、痛みの度に私の身体が透けていく。 満杯の液体は、光を反射して七色に輝く。 眩しくて目を瞑る。もう、痛みは感じなかった。 次に目を開くとそこはいつもの駅だった。 嘘のように身体が軽かった。 小瓶の中で、一輪の花が咲いていた。 それを見て、なにか満たされた気がした。 たとえ途中参加した人生でもかまわない。 これから、わたし色に染めれば良いのだ。
- 完 -