「夜には湖のプラネタリウムにいる。何かあったら来るといい」
彼女は私にそう言った。
制服の袖をまくられ、そこにある錆びた傷を彼女に見られてしまった。
彼女はいつも冷たい目をした。目が会う度に心を抉られているような気持ちになった。
プラネタリウムに行くべきだろうか。そこに行けば救われるのだろうか。
何もなければいい。それで済む話だ。
私は頭を振って教室を出た。
家には母親とあの男がいた。
私なんて、存在しないかの様に。いや、実際見えないのだろう。父が家を去ってから、もうずっと。
だから、一言もかけず、書き置きも残さずに、私は湖へと。あの日の父の様に静かに何も残さず家を背にした。
思い切ってみると、冷たい空気が痛いくらいに気持ちよかった。
冴え冴えした気分で、ひょっとしたら鼻歌までこぼしていたかも知れない。彼女は目敏く私を見つけ、彼女の聖地へと迎え入れた。その目はやっぱり星の様。
私を見つけた彼女は、しかしすぐにふいと顔を背けた。
来るといい、といった割に話しかけてくることはない。
何かあったから来たのだろうに、話しかけはしない。
私たちは、近くも遠くもない距離に座り、話しかけも話しかけられもせず、ただ空を見上げていた。
見えないけれど、あの星のような目の中に数多の星が映る様子は、きっと美しいのだろう。
来る場所があるというのはいいものだ。夜なのに私の影が色濃くなるようで、こんなおかしな話、笑える。
「ふふ、どうせならリクライニングする椅子でもほしいわね」
吐いた言葉が白く見えた。時折、湖からチャポンと音がする。後は何もない。何を待つ訳でもなかったから、いい。
待っていた。本当は救われたかった。星はどうして綺麗だろう。
「息が白い」
彼女の声がした。私の息を見てか、自分の息を見てかはわからない。
小さく身震いをする。緊張が解けた今、自分の身体の温度に初めて気がつく。
「これを飲め」
そう言って彼女が手渡してくれた小豆色の少し無骨な印象の水筒はとても彼女らしいと思えた。
中身を注ぐ。暖かな蒸気。そしてまた静寂。空はあんなに遠いのに寂しくないのは彼女の呼吸音が響いているから?
手に温度が戻った頃、私の胸が新しい音を立てている事に気づいた。星に吸い込まれそうな程の微かな希望の音。
その希望が私に質問する力をくれたのかもしれない。
「ここをプラネタリウムって名付けてるの?」
すると彼女は、質問に質問で返してきた。
「そう思っているのか?」
私は変な声を出してしまった。
「へっ?」
私の様子に彼女は少し笑いながら言葉を変えてくれた。
「ここがプラネタリウムとは言ってないぞ。時間が来るまで待っているだけだ」
何の時間を待つのだろう?
そう思ったけれど、場所について訊く事にした。
「湖のプラネタリウムはどこにあるの?」
彼女がくれたのは蜂蜜酒だった。とろりとした甘さが口の中に広がり、身体を内から温めてくれた。
「直にわかるさ」
彼女の口にする言葉はいつもぶっきらぼうだった。
正直なことを言えば、あの家から逃げられるだけで、私を受け入れてくれる場所があるだけでよかった。それがプラネタリウムでも、ただの湖でもどちらでもいいのだ。
「ここへ招待してくれてありがとう」
「ああ」
その返答は少しだけまるみを帯びていた。
「そろそろか」
ふいに彼女がそう言ったので、はっとする。それと同時にその光景に目を奪われた。
天の星々が湖にしずかにその灯し火を落としていた。ふたりしてほうっと息をついて見いってしまう。顔を見合わせて少し笑った。
「はじめて笑ったな」
「え?」
あんただよ、と彼女は苦笑した。私は彼女の瞳に湖のプラネタリウムを見る。
「綺麗…」
私の言葉が白く煙る。
「だろう」
彼女は星の瞳で湖のプラネタリウムを眺めていた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。ふいに温かな気配を感じた。
彼女が私を抱きしめていた。
「いつでもここに来な。あんたは一人じゃない」
その温もりに身を委ねると涙と共にずっと忘れていた思いが溢れて、無数の滲んだ光が煌めいた。
私たちは湖の色が空色になるまでプラネタリウムを眺めていた。