僕には妻が居る。 美人で、スタイルが良くて、料理が上手で、 笑顔が素敵な、僕の幼なじみ。 もう少ししたら、子供だって生まれる。 一般的に言ったら、ごく普通の幸せをかみしめているんだろう。だけれど、彼女が僕と同じ苗字なることを望んでいたのかは、分からない。 彼女には、 目付きが悪くて、喧嘩っ早くて、ぶっきらぼうで、だけど誰よりも優しい恋人がいたのだから。 もう、どこを探しても居ないけどね。
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そう。どこにもいない。 彼女のお腹の中にいるのは、僕との間のこどもじゃない。 悲しみに打ちひしがれる彼女を支える幼馴染が、彼女の夫になる。周りは自然な流れだと思ったのだろう。誰もが祝福してくれた。 彼女の恋人は、通り魔に殺された。 通り魔は、僕じゃない。僕の知らない人。 ネットで見かけたやばそうな男が、殺人予告をしているのをみて、僕は彼女の恋人をその場所に向かわせた。 僕は彼女のために…。
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そう、すべては彼女のため。彼と一緒だと、彼女は幸せになれなかった。だから僕は、彼女が幸せになる手助けをしただけだ。ほんの少し、歯車に潤滑油を落としてやっただけなのだ。 彼女のお腹を優しく撫でる。 「早く産まれておいで」 彼女は怯えた目で僕を見る。産みたくない、と小さく呟く。だめじゃないか、そんなこと言っちゃ。そんなに僕の愛情が信じられないのかな。血の繋がらない子を虐めるほど、僕は狭量ではないよ。
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生まれてくる子供のために僕と一緒になるべきだ。君一人では子供を育てられない。子供には父親が必要だ。僕には君と君の子供を養う甲斐性がある。何より僕は誰よりも君の事を知っている。亡くなった彼よりも── 経済力のない彼女は、僕の申し出を受け入れるしかなかっただろう。たとえ、僕を忌み嫌っていようとも。だが、それでも構わない。彼女は僕のものになったのだから。 そう、彼女は僕のもの。 僕のものなんだ。
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「彼は多額の借金があったのを君に隠していたんだね」 彼は目に涙を浮かべて小さく首を振ってから部屋に閉じこもってしまう。 この行為が君を傷つけることもますます僕を嫌いにさせることも分かってる、それでも僕は彼を侮辱することを止めることはできない。 思い出は美化される、生ける者が死者を上回るにはその美しい思い出をすり替え見せ掛けだけの物だったと言い聞かせるしかない。 子供だけが君と僕を繋げる糸だった。
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「ご飯できたから。栄養取らないとね」 しばらくして僕が部屋を開けると、そこはもぬけの殻だった。 窓から入る風がカーテンを揺らしている。 まさか。 外を見ると足跡が幾つか残っていた。 慌てて自分も窓から出る。 玄関に行き着くか行き着かないところで、うずくまる妻がいた。 陣痛が来たのか、荒い息をしている。 僕は優しく肩を抱く。 「大丈夫」 妻は震える声で言った。 「死なせてよ」
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「あの人が良かったのっ」 僕もショックを受ける。 「そんなこと、言わないで…よ…」 「これから、あの人には会えないのっ」 「僕が頑張るよ!あんなやつより…」 借金を持ちながら子供を作った彼には、僕は勝てないのだろうか。 「駄目…あの人じゃなきゃ…」 もう彼には会えない。 そんなことは彼女が一番よく知っていた筈だった。 彼はどうしてこうも彼女を虜にしてしまうのか。 「…生きてる意味がないの……」
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死んだ奴には、永遠に勝てないのだろうか。どんな報いを受けても、どんな努力をしても? 最も眩しかった時期が彼女の中に残り続ける限り、彼の記憶をうわ塗ることは出来ない。 そして、彼女の心は死を思うばかり。 妻は腹を抱えてうずくまる。吐息が荒い。 僕は拳を震わせる。幸せにしたい、幸せになりたい。ただそれだけなのに、現実はいびつに軋む。 彼女は誰のもの? 僕は、手を伸ばす。彼女へ。 ──未来へ。
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彼女は僕の手を握り、涙を流した。 「ごめんなさい。私、全部わかってる。本当に優しいのはあなたってこと。」 握られていた手をさらに強く握り返した。 彼女の手は震えていた。 「病院、連れてって。産まれそう。」 僕は車を出すため車庫に向かう。 冷たい風が吹く。 アクセルを踏んだ瞬間、体が焼けるように熱くなり、周りが炎で染まった。 .....死ぬ。 彼女はお腹をそっと撫でていた。
- 完 -