桜、燦々と

新入社員の歓迎会の帰り道は、生温い風に桜の花びらがふわりふわりと漂っている。 「あ〜飲んだ飲んだ」 誰もいない夜道を一人歩きながら口に出した。 私も数年前はあの子達みたいだったのだ、と初々しいリクルートスーツで自己紹介をする新入社員に自分を重ねて思い出す。 あの子達は、 彼と出会う前の私。 彼に傷つく前の私。 彼に疲れる前の私。 飲み会の途中、彼に別れようと告げた。社内恋愛に疲れたの、と。

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目を丸くする彼に背を向けて出てきた。何を驚くことがあるの、と意地の悪い私が思う。 ウチの社の情報伝達は早い。 仕事においては他社に誇れることだけど、仕事には関係のない噂話も、同じ速度で拡散していく。 顔に出やすい彼のこと。 嘘の下手な彼のこと。 口の軽い彼のこと。 きっと今頃、二次会に居る皆には伝わってるんだろうし、明日には部内全員が知るのだろう。 別にいい。 そんな思いも、もう最後だ。

sakurakumo

9年前

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ポケットの中の携帯が震えた。同期の正樹君からのメッセージ。『大丈夫?』 もう知られちゃったか。苦笑いをしながら、返事を打つ。 『疲れたからね。明日から会社行くのがやだな』 自分が撒いた種でもある。彼を選んだ事を悔やんでる訳じゃない。好きだったのは嘘じゃない。周りの目を気にしなきゃいけない事、彼は私を心配するどころか自分の事しか見えてなくて。 不意に後ろから肩を叩かれ振り向くと、正樹君がいた。

9年前

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驚いて思わず声を上げた私に正樹君が気まずそうな笑顔を向ける。 「さっき偶然、聞いちゃったもんだから、気になって」 「なんだ、アイツが言ったわけじゃないんだね」 正樹君と肩を並べて歩く。他の店で飲み直さないかと誘ってくれたが、答えを濁した。 独りになりたいのと、誰かと話していたいのと、気持ちは五分五分。 「じゃあ、そこのコンビニでビールでも買って、夜桜見物しようよ」 正樹君、粋な事を言う。

hayasuite

9年前

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正樹君は普段から口数が少なく物静かな人。こんな時でもそれは変わらず、ビールを買う間も桜の咲く公園へ向かう間も、必要最小限のことしか言わなかった。 夜のアスファルトに二人の靴音だけが響く。 「迷惑じゃなかったかな」 不意に正樹君が尋ねた。 「俺、口下手で気の利いたことも言えないのに、こんなふうに誘って」 私は首を振った。 「そんなことないよ。ありがとう」 今は多分、沢山の言葉なんていらないから。

misato

9年前

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夜桜なんて最初から見る気なかった。ただ、誰かに愚痴りたかった。でも別れたばっかりの時に誰かと二人きりなんて。そういう葛藤が、私を公園に連れてきたのだろう。 「……後悔はしてないんだよ」 ベンチに座り、一口ビールを啜ったら、なぜか言葉が溢れてきた。 「彼、悪い人じゃないし。ただ、デートの内容も、どこで何したかも全部言っちゃうから。周りの人から私がどう思われるか、考えてくれない。それが疲れたの」

Dangerous

8年前

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「そっか」 正樹君の相槌は優しい声だった。 「うん」 私の答えが素直に聞こえてたならいいけど…… 桜がひらひらと落ちてゆくのを、ふたりで静かにただ眺めた。 ふと正樹君がフッと笑った。 「なに? どしたの?」 と私が疑念を口にすると「いや。夜桜見てたら部長の夜桜お七を思い出してね?」という言葉が返ってきた。 「あの音の外し方は絶妙だもんね〜?」と私も笑ってしまった。 「だよね〜?」 「だよ〜!」

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「…楽しかったなあ」 空いている手を目の高さに上げてつぶやく。指の隙間から花びらが見え、また消えた。 「新人も楽しみだな、みんな若いしな〜」 正樹君はそう同調し、ヒロタは俺らをなめてるよなあと新入社員の1人を貶す。 楽しかったのに。 楽しかったはずなのに。 私が楽しくない1日にしてしまった、私にとっても、きっと彼にとっても。 桜に紛れて、壊れた水道管のような涙が地面を濡らしている。

美衣

6年前

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不意に涙を流す私を当然、正樹君は心配した。 ウォータープルーフのコスメで良かった。そうじゃなかったら「気のせいじゃない?」と強がれなかった。 しとしと流れる涙を指先で掬う。仕事も恋も手に入れて誰もが羨む幸せな女になれたと思っていたのに。 ラスト一口を啜った時、一陣の風が吹いた。強風に煽られた花びらが目尻に吸い付いて最後の涙を拭き取る。 「俺、口下手だけど泣いてる女の子を慰めるくらいは出来るよ」

6年前

- 完 -