花火が中止になっても構わない……ただ

曇り空を睨みつけながら、初めて一人で浴衣を着た。 桃色と紫の朝顔柄。真朱の帯は結ぶと少し傾いて、何度も何度もやり直した。 結い上げた髪に、あの人から貰った簪。慣れない鼻緒が足の指を擦る。 どうか、雨が降りませんように。 祈りながら通りを行けば、今にも泣き出しそうな曇空を宥めるように、燈火が揺れる。 祭の灯の下、待ち合わせの時刻。行き交う人に目を凝らす私の額に、ぽつり。 大粒の雨が落ちてきた。

10年前

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今日だけは降らないで欲しかった。 私自身も泣き出しそうなくらい悲しくなって、手で顔を覆った。その時。 雨が、止まった。 ザアァと鳴り止まない雨の音。 ふと見上げると、青い傘が。 振り返ると、あの人がいつもと変わらぬ笑顔で私を見ていた。 「ごめん、待った?」 決まり文句。 「ううん、全然」 きっと晴れていたら、素敵な夏祭りになったんだろう。 でも。 ザアァ… 雨は一向に止む気配を見せなかった。

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「歩こうか」 と、声がする。そろり、と歩を進める草履は既に濡れていた。お目当てだった綿菓子は、この天気の中で持ち歩くことはできないだろう。雨の波紋は泳ぐ金魚の朱の影を汚す。ポイは役に立たなかった。 「つまらないか?」 そんなことを聞かないで。傘を持つ右手にそっと身を寄せた。笑顔のつもりはつもりのままで。 「雨宿りしようか」 黙って彼についていく。向かう先の神社の屋根の下で私たちは立ったまま。

aoto

10年前

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「花火中止だって」 花火はどうでもよかった。夏祭りという非日常を共有できればそれで。 「残念、だな」 彼の言葉は私の言葉に合わせてるだけ。 彼の真意が解らない。 一緒にいて楽しいの? つまらないかと訊ねるのは、楽しくないからじゃないの? 不安になるのは雨の音が激しくなって祭りが早く終わりそうだから。 まだ、一緒にいたい。 不意に彼が私の肩を抱く。 「そっちの肩が濡れてる」

10年前

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彼の体温を感じる。 雨足はいよいよ激しく、水に煙る視界の中に、祭の灯がぼんやりと浮かび上がる。走り去る人々、ずぶ濡れの屋台、全て磨り硝子越しの景色の様。水の膜に覆われて、私達2人だけが世界から隔絶されてる、なんて、馬鹿げた空想をしてみたり。 不意に、稲光。 身を竦めた私を、一層強い力で引き寄せてくれる彼の腕。 「お前、雷苦手なのな」 照れ臭そうにはにかむ彼。このまま、時間が止まればいいのに。

10年前

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ほんのりと彼の香水が鼻をかすめた。男の人の香り。雨音が一瞬消えた。しかし体を離した途端またザアァと煩く響く。 雨でもいいんだ。貴方を近くに感じられれば。 「今日ね、楽しみにしてたの」 大事そうに。 「悔しかったよ。でも一気に吹き飛んじゃた」 彼にはどうやら伝わってるようで口角を少し上げていた。 濡れてもいいの。 雨のニオイとアスファルトのニオイと貴方の香水、全部混ぜてもう一度抱きしめて。

kahoko

9年前

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雨のカーテンが私達を隠してくれるから、安心して貴方の胸の中にいられる。 埋めた頬に張り付くTシャツ。 このまま雨も、私の涙も、吸い取って。悲しみが彼にバレないように。 「最後の祭りだったのにな」 「…うん」 「でもお前と抱き合えたから、俺も吹き飛んだ」 貴方らしくない茶目っ気を帯びた瞳があんまりに優しいから、私はまた泣きそうになる。 でもグッと我慢。 その代わりに雨が降り注いでいるみたいね。

いのり

7年前

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それから、雨が降る時、降る時、思い出す。 雨の日の思い出を。 また行きたいなって思ってもダメなんだね。 今日は豪雨。しきりに空は鳴いている。 あぁ、貴方が隣にいてくれたら...... そう思ったのもつかの間、稲妻とともに部屋の明かりが消える。 「キャッ......」 この暗闇のなか、空が鳴き、私も泣く。 想っても想っても貴方は来ない。 だって貴方は......

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 豪雨の中、馬鹿な私は貴方の臭いに釣られて外に出る、もうあるはずが無い残り香を。  無意味になった屋台の残骸を尻目に目的の場所に向かう、神社の屋根の下。  貴方はいない。  ふいに花火の様な轟音と閃光が夜を飲み込む。  耳を塞いで目を瞑りしゃがみ込んだ私を優しく誰かが抱きしめる。 『残念だな、今日花火は中止だ』  ゆっくりと瞼を開ける。 『待たせて悪かった』  私は唇を噛み締めた。

スガル

7年前

- 完 -