腹が減った。 とにかく腹が減って仕方が無い。 水で腹を膨らますのには限界があった。 冷蔵庫にはもうなにも入っていない。 全財産、残り150円。 給料日まであと8日。 どうする俺、
- 1 -
真っ先に思いついたのは試食コーナーだった。 近所にスーパーは、徒歩で行ける距離に1店舗、自転車で行ける距離に2店舗ある。 その3店をまわって試食コーナーをあされば空腹はまぎれるだろう しかし、行き過ぎると店からマークされて行きにくくなるかもしれない。 そんな不安が頭をよぎった。 あと8日。もし試食コーナー頼みでいくなら、ペース配分が重要になる。 どうする俺。
- 2 -
試食は三日置き位にするとして、三日分の夕食はしのげる。朝食は食べないからあとは残りの夕食と昼食だな。 150円…。 そうだ!確かあそこのパン屋はパンの耳を一袋30円で売ってくれる。5袋あれば5日分の昼食にはなるだろう。仕事場で昼休みに自分だけ何も食べないのは怪しいからな。砂糖があったからお菓子風に焼いて持って行こう。土日の昼食は我慢だ。 夕食はどうしようか。
- 3 -
やっぱり、150円なんて無理があるんだ。こうなったら他人に頼るしかない。情けないけど、女々しいけど、生きていくために。 そう覚悟して電話したのは、実家だった。 「はい、藤堂でございます」 「、、、。母さん?」 「あら、案外長い間もったわね。もっと早く電話かかってくると思ってたわ」 藤堂財閥の御曹司という立場に疲れて家出したのは3ヶ月前。母親はなんでもお見通しと言わんばかりに悠々と待っていた。
- 4 -
そして今、俺はどこまでも続く高い白壁の塀の前を歩いている。この塀の中、東京ドームがすっぽり収まる広大な敷地が、俺の実家だ。 財閥の御曹司という立場は希薄な人間関係を広げるばかりで、これまでの人生で親友の一人も出来たことはない。 幸いにして真面目な兄がいるため、俺は藤堂グループとは無関係な一般企業への就職が許され、それを機に俺は家を出た。 本当の俺を取り戻すために… グウウウ くそ、腹減った。
- 5 -
ここで家に帰っては折角の家出がだいなしである。まだ自分を取り戻せてはいない。 しかし、身の前には家。 ありとあらゆる食料があり、給料日に関わらず福沢諭吉が何人でも手に入る世界の入り口は、すぐそこまでせまっている。 ………。 腹が減っては戦ができぬと言うからな。
- 6 -
仕方ないから今回だけ…と口にした瞬間、敗北感に包まれた。高い高い鉄柵を通り抜けて数百メートル先にある玄関を目指す。一歩進む度に気分が落ち込んだ。結局、俺は本気で家を出たいと感じていなかった。帰ったら豪華絢爛な食事が待っている。きっと腹は満たされ、心は空っぽになるだろう。ああ、もう疲れた何もしたくない これが本当の俺 我に返ると玄関の前に着いていた。不意に風に乗って甘い匂いが辺りに漂った。何だ?
- 7 -
ふらふらと自宅玄関を通り過ぎ、3軒隣りの平屋まで来た。 甘い匂いはここからやってきたようだ。 つい窓から覗き込むと、中にいる住人と目が合ってしまった。 思わず目をそらして早足で立ち去りかけた時 「藤堂のちぃお兄ちゃん?」と声をかけられた。 「やっぱり!私よ!千沙!お屋敷で母と住み込みしてた…」 藤堂家で長く家政婦をしてくれてる娘の千沙が、マフィンを持って出てきた。 「あの菓子作り大好きの千沙か!」
- 8 -
千沙は家政婦の娘であって、藤堂家ではない。これは実家に頼ることにはならない。 ただ、たまたま会った知り合いから、お菓子をプレゼントされるだけだ。 と、俺は無理矢理自分の気持ちを正当化した。 マフィンは空腹の腹に一際染みた。 香り、味が余韻を残している。 俺は勝てなかったのだ。 正当化したのに、何故か俺の中には敗北感が湧いていた。 千沙の後ろにそびえ立つ白壁に、俺は引き込まれる思いがした。
- 完 -