彼女の背は美しかった。 美しさは、形だけにとらわれない。姿勢も良くて、肩甲骨が浮き出たラインが私はとてもとても、好きだったのである。 「水着でも着ないと友紀の背中みらんないわ」 毎年夏に、どさくさに紛れて彼女の背を褒めた。本当は他の部分も愛おしかった、彼女というブランドである限り全て。 それを満足に褒めることができないのは、この国の法律のせいだ。 私、「坂井なみ」は、「玉井友紀」を愛していた。
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この話をする度、何故、と聞かれる。 どんな状況だったらこんな想いを持つのか、人は不思議に思うらしい。 理由なんてあるのか。 この話をする度、私はそう反論してきた。 プールサイド。 水灯りに揺らめく白い肌に潜む血の温度を知りたかった。 水滴に洗われたしなやかな首元の脈拍に、冗談めかして触れる、その高揚。 私の経験は私にしか語り得ない。だから語るだけだ。 「玉井友紀」、その名が持つ意味と情熱を。
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初めて彼女を見かけたのは、高校の入学式だった。新入生代表として立ち上がった彼女は只管に美しかった。伸びた背筋、凛と前を見つめるその瞳、歩く姿、澄んだ声——その全てが私の心を魅了してやまなかった。 その日から私は「玉井友紀」の名を聞く度に入学式の彼女に思いを馳せた。廊下で背中を見かける度に頬が熱く、他の子に向ける笑顔を見る度に心臓が縮むような感覚に襲われた。 いつか話せたら。そう思って半年が過ぎた。
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その半年の間に彼女の熱狂的なファンクラブが生まれた。私達が学んだ学校は全寮制の女子高だったが、それゆえに特別な信仰めいたものが他の子にも必要だったのかもしれない。さもありなんと私は冷静にそれを見ていた。 でもその頃私は玉井友紀の肩甲骨に欲情していた。 代わりに私が半年の間にしたことは食堂で偶然を装って彼女の視界に入る席に座り、彼女の好みそうな本を片っ端から読み尽くすことだった。子供じみている。
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「ねえ、坂井なみさん」 夏の終わり、長期休暇で人影のまばらな寮の夕さり。 ふと声をかけられて振り返る、そこには見知らぬ女生徒がいた。 吊り目がちの何処か繊細なかげのある華奢な少女だった。 私はこの子を知らなかった。 しかし、彼女は私のことを知っているのだ。 私は少し眉を顰めて返事をしようとして。 手に、痛みを感じた。 「あの人は、坂井さんだけのものじゃないの…」 少女が私の手首を掴んでいた。
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「二度とあの人の視界に入らないで」 ぎり、と細い指が食い込む。 「あの人はいつも、坂井さんのことを目で追いかけているの」 一瞬、息の仕方を忘れた。 白くなるほど強く手首を掴まれている感覚が消えて、代わりに呼吸が苦しくなった。喉の付け根を押さえつけられているかのように。 気付かなかった。 違う、気付いていない振りをしていた。彼女の背ばかり追いかけて、その眼差しを正面から受け止めようとはしなかった。
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その時、 その名も知らぬ女子生徒によって今までずっと気づかないふりをして逃げてきたものに私はとうとう捕らえられてしまった。 心臓の鼓動が早まる。どくどくと熱いものが身体中を巡ってゆく感覚が私の胸を締め付ける。 やっとのことで「…わかりまし、た」と声を絞り出したものの身体が言うことを聞かない。ようやく女子生徒に解放された私はその場に崩れ落ちた。 そんな…いや、でも… 玉井友紀の背が脳裏に浮かぶ。
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「大丈夫?」 目の前にすんなり伸びた白い足があった。私が見上げるより早く、その持ち主が屈む。玉井友紀の瞳が私を捉えた。 「ここ、痣になってるわ」 彼女の手が、私の手首を撫でた。 それを機に、私たちは親しく話すようになった。友達になりたかったの、と彼女は言った。それでもいいとその時は思えた。一緒にプールに行き、その背に見惚れた。 そして、あの見知らぬ女生徒のことなど、私はすっかり忘れていたのだ。
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切り裂かれた制服が赤く染まっていた。 あの美しかった背に、ぱっくりと開いた生々しい傷口。 自分の犯した事態に恐慌をきたした女生徒は震えながら逃げ去っていった。 「友紀」 私に身体を預けながら、彼女は意識を手放しかけていた。 胸が震える。 恐怖ではなく。 喜びで。 あの玉井友紀が。 私を庇って。 血塗れの背に手が伸びた。 ぬるい体液が、指の間からぼたぼたと零れ落ちていく。 「好きよ」
- 完 -