触るぞ、身体に。 そう言って彼はまた背中にぬるま湯を浸した手拭いで、私の身体を拭う。 「武士の争いに、団子屋の娘などが入るでない。肝が大きいのと無謀さは紙一重だ」 そうゆう彼の顔を肩越しに伺う。その顔はやや赤らんでいる。 「…っ自分で出来ます」 「…っ駄目だ。俺がやる」 頑な彼は、そのまま背中を拭う。 あぁ、これだから。 この人は、優しいのだ。
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薄皮を斬られた程度の傷で、本当に大したことはない。 店の前で起きた諍いが大きくなったのが原因。 客が逃げるし評判にも差し障るということで、割って入ろうとしたらこの有様。 斬った張本人は、私を殺してしまったと勘違いしてそのまま逃げてしまった。 「……包帯くらい、自分で出来ます」 「駄目だと言っておろうが。大人しくしていろ」 幼少の頃から知っている。 この人の優しさは、とても不器用なのだと。
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幼少の頃から知っている。 この娘の真っ直ぐさは、包み込むような優しさなのだと。 脱がした着物からのぞく柔らかそうな乳白色の肌に、知らず顔が熱くなる。 なめらかな背中を極力見ないようにしながらも、包帯を当てる背中には、痛々しい赤い傷が流星のように奔っていた。薬草を塗り込むと、沁みるのかびくりと身体を震わせる。 「…どうして、あのお侍さまと言い合いになったんです」 少し心配そうな声色。
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「お前が……」 そこまで言いかけて口を閉ざした。 娘は軽くこちらに振り向いて可愛らしく首を傾げ、その続きが語られるのを待っている。 「お前が気にすることでは、ないよ」 問いかけるその瞳から目をそらした。 滑らかな肌を覆い隠すように、無心で包帯を巻きつけた。最後にくいと引いてやれば、小さな身体が揺れる。 肌蹴た着物を整えてやれば、娘は身体ごと振り向いて、ぽつりと呟いた。 「少し、悲しいです」
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細い目を瞑り、仰ぐように顎を浮かせ、彼は口を結んだ。事情は決して教えてもらえないのだろう。そういう、人だから。 無言で頭を下げると、すまん、と一言だけ口にした。 「傷の方は本当に大丈夫なのです」 「とてもそうには思えなかった」 合わせようとしてくれない彼の目を執拗に追った。白魚のように、彼の目は逃げる。 ぬるま湯の入った桶を手にし、手拭いを浸して彼は去ろうとする。桶の湯がわずかに跳ねる。
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「あなたさまがっ…」 ふいに袖を掴んでしまったせいで桶の水も跳ねる。 「…あなたさまが、武士だということは承知しています。武士が死と隣り合わせだということも…」 「…何が言いたい」 彼は先ほどとは違い静かに私の目を見据えていた。 「でも私は、あなたさまの傷の手当てなどしとうありません…っ」 声がくぐもり後が続かない。涙が滲みそうになって思わず下を向いた。 僅かな沈黙のあと、そうか、と声が降った。
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ならば、 彼を見てぞくりとした。 悲しそうな、だけど冷ややかな目をしていた。 「もう俺と関わるでない」 私の手を払い、去っていく。 「あなた、さま…」 これがこの人なりの優しさなのは知っているけれど、心に刺さるものが無いといえば嘘になる。 この人は真っ直ぐな武士だ。私のような娘が出来ることなど何も無い。 わかってはいるけれど、黙ってはいられなかった。 「あなたさま…っ」
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暖簾をくぐり、店を出る。 娘の私を呼ぶ声に背を向ける。 振り返る事は出来ない。振り返りたくても、私の両足はむしろ速く交互に動く。 私に彼女は見合わない。 彼女は純白そのものだ。 私とは、住む世界が違うのだ。 やはり–––––。 自分の掌を見つめる。 私のこの血で汚れた手で彼女と掌を重ねる、私には、その「覚悟」がない。 いつか、護ろうとした彼女すら、握りつぶしてしまいそうで––––。
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すぐそこで、先程斬り合った男が待っていた。 「この一件、殿にもお伝え申す。あれは殿がお側にと望まれた娘。其方が幾ら懸想すれども無駄なこと」 男はせせら笑う。彼は刀の柄に手をかけた。あの娘と共に生きられないのなら、せめて。 「御免」 暫くして、或る侍が鬼になったと噂が流れた。鬼は同輩を屠り、団子屋の娘の背にも傷を負わせたという。殿様は娘の傷を気味悪がり、娘が奥に入る話は立ち消えとなったそうな。
- 完 -