薫り漂う週末の時間旅行

あたり一面に漂う、焼きたての香ばしいパンの良い匂い。 バター、砂糖、カスタードクリーム、いちご、チェリー、チョコレート味…… お店には、様々な形と種類のパンが並んでおり、子供のようにキラキラした瞳でどれにしようかと、持っているトングを握りしめた。 淹れたての少し熱いくらいのホットコーヒーと共に、サクサクのパンにかぶりつく。 土曜日の朝、私の唯一の楽しみだ。

なつ

12年前

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こんがり焼いた表面に歯が食い込む感触の次に、しっとりと優しい舌触り。噛むたびに、こんがりとしっとりが口の中で転がり、飲み込む。感動のあまりに、こぼれた溜め息でさえ、いい香りがするから、たまらない。 そして次のひと口。お目当てのカスタードクリームにありつく。こんがり、しっとり、とろぅり。三つの味が合わさり、調和する。いつまでも噛んでいたいという思いが脳内を支配する。日常の事を全て忘れさせてくれる。

Jiike

12年前

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ふかふかのソファに身をゆだね、ホッと一息。カップから伝わるコーヒーの温度も心地よい。 それに優しく耳に入りこんでくるボサノヴァの曲。まるでコーヒーの湯気が作りだした五線譜の上で楽しげに踊っているかのようだった。 私はバッグから読みかけの文庫本を取りだすと、バターの香りが鼻をくすぐるこの店内から、古びた洋館で繰り広げられている不可解な事件の謎を解決すべく、ミステリーツアーへと旅立った。

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ふと気付けば、店内に人も増えてきた。 あれから小一時間ほど、時間を忘れて過ごしていたのかと思うと、なんだか自分が面白く思えて笑ってしまう。 店員さんにコーヒーのお代わりを頼むと、文庫本を一旦閉じて外と店内を眺めた。 何も変わりはない、土曜の午後の風景。 店の外は慌ただしさが金曜から走ってきて、そのまま日曜に行ってしまうみたいだ。 それに比べれば、店内はなんて落ち着いた空間なんだろう。

nanoan

12年前

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いつもなら午後に予定を入れたりもするけれど、今日はのんびりと。 二冊目の本でじっくりと恋に浸りながら、カフェオレを追加注文。クロワッサンを浸して、ぱくり。 魔法がかかったみたいに、時の流れが緩く。窓際のソファ席は心地よく、暖かな陽射しだけが射し込んで。 読みかけの恋愛小説は極上で、いつまでも本を閉じたくない。 カフェオレを飲み干して、ふぅとため息を吐く。 終わって欲しくないなあ、土曜日。

11年前

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日常の中の非日常がここにある。 少し離れた席には、老夫婦が静かに紅茶を飲んでいる。 二人の会話は、長年連れ添った独特の間があった。多くを話していないのに通じ合う二人。 手元の恋愛小説以上に深い物語があるのだろう。私は小説の中の恋愛に浮かれるだけで、実際には甘い恋愛というものに縁がない。けれどこうして一人を楽しめるのだ。 再び極上の恋愛小説の世界へ。誰かを恋う気持ちは擬似的なものが今はいい。

11年前

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三冊目の文庫本を取り出し、ダージリンの紅茶を注文。 日常と非日常との狭間の中で、今日は一日読書に耽るのだ。次の物語では家族がテーマに描かれている。 当たり前の生活と、愉快な登場人物たち。私には遠いけど、妙に近しい人々のどこにでもあるような動向に、くすっと笑みを漏らしてしまう。 文庫本から顔をあげると隣の席の人と目があった。麻のシャツを着た男性だった。笑みを勘違いされたのか、微笑みが返された。

aoto

11年前

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小説をゆっくりと閉じた。 まだ、続きを読みたい気もするが、まだ楽しみを残しておこう。 紅茶をひとくち飲んだ。程よい苦味が口の中に広がる。 なんだか甘いものが食べたくなった。 店内をぐるりと見回す。 ふと目にとまった。サクサクのアップルパイ。 美味しそう…。 私はずっと羨ましそうにそのアップルパイを見つめていたのかもしれない。 「これ、美味しいですよ」 さっき、目があった男性だった。

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「良かったらどうぞ」 そう言って男性は、自分が買ったアップルパイを私のテーブルに置いた。 「え?いや、そんな!見ず知らずの人に頂くなんて…!」 「いつも僕の本を楽しそうに読んで頂いているお礼です」 「え⁉︎それって…」 男性は笑顔で一言礼を言うと、そのまま店を出てしまった。 気が付くと、外は日が落ち始めていた。 私は頂いたアップルパイを口にしながら、残り僅かとなった今日の非日常を締めくくった。

hyper

11年前

- 完 -