「それでは、人は斬れぬなぁ」 背後から、老人と思われる声が聞こえ、弥太郎は稽古を中断して振り返った。 杖を手に、粗末な着物を着た老人が弥太郎を見て笑っている。 どう見ても、物乞いの様にしか見えない。 「…なんだ、物乞いか」 弥太郎は吐き捨てる様に言うと、稽古を再開した。 稽古をしていると、たまに、こういう類の輩が小遣い欲しさに口を出してくる。 相手になどしていられない。
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「お前さん、百姓じゃろ」 老人の声に、弥太郎は眉を顰めた。 「侍になりたいのか?」 「…俺は京へ行く」 素振りを一閃。飛び散る汗が陽に光る。 「今京では薩長の侍共が暗躍して血の雨が降っていると聞く。そいつらを片っ端から叩き斬って、手柄を挙げる。そして侍に取り立ててもらうんだ」 「青いのう」 弥太郎はきっと目を剥いた。老人は涼しい顔で続ける。 「それがいかんと言うのじゃ。お主の剣は我が強すぎる」
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「我が強い…?薄汚い物乞いに何がわかるってんだ!」 弥太郎は老人をにらめつけた 老人はその眼光にぴくりともしない 「京は物騒じゃ。毎日のように名も知れずに死ぬ浪士がわんさかおる。お前さんには斬る側にも斬られる側にもなって欲しくない…お前さんは死んだ孫に似てるわい」 この物乞い俺を心配してるのか? 「心配ご無用!俺は武士になりてぇんだ!死ぬ覚悟も殺す覚悟もできてらぁ!…それに一生農民だなんて
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「…っ」 言葉と思考が同時に飛んだ。はっと気がついたとき、弥太郎の身体は既に地べたに転がっていた。 「まことに、死ぬ覚悟はできておるか?」 杖で木刀を弾き飛ばされたのだ、と理解するまでに少し時間が要った。右手がびりびりと痺れ、指も曲がらない。 老人はそのまま、倒れた弥太郎めがけて杖を振り下ろす。 弥太郎は潔く腹をくくることも、隙をつき老人を殺すこともできなかった。ただ、きつく目を閉じただけだった。
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いつまで経っても痛みは来なかった。薄っすらと目を開けると、老人の杖の先が目の前でピタリと止まっている。 「…っは」 思わず息を吐いた。老人がさぞ愉快そうに喉を鳴らし、杖を下ろす。 「怖かったか」 「怖くなど…!」 勢いよく噛み付くが、老人はそうかそうかと笑うばかりで怯む様子すら見せない。 「死ぬ覚悟ができんのなら、殺されんくらいに強くならねばならん。老いぼれひとり殺せんようじゃあ、まだまだよの」
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そう言ってゆっくりその場を離れる老人の背中を眺めながら、弥太郎は悔し涙を流した。 汚い老人に負けた上、悔し涙を流す自分に対し、ふつふつと怒りが湧き上がる。 ──老いぼれひとり殺せんようじゃあ、まだまだよの お前が武士の何を知っているんだ。 何かがプツンと切れた気がした。 「うぉぉぉっ!」 弥太郎は、老人の背後から思い切り木刀を振り下ろした。 「この田分けが。そんな速さじゃ、蟻も殺せぬ」
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老人は背に目があるかの如く、容易く弥太郎の一撃をかわして見せた。老体とは思えぬ、俊敏な足さばきで。 「死ぬ覚悟もなければ、殺す覚悟もなし、か。やはりお前さんに侍は務まらんよ」 「…分かった口をきく。武士道の何たるかを、知っているとでもいうのか」 悔し紛れの憎まれ口のつもりだった。けれど老人は、一瞬遠い目をする。悲哀と悔恨に満ちた眼差し。 「刀はな、業が深すぎるのじゃ。農具の方が余程、人を生かす」
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その言い様にえも言われぬ違和感を覚えて、弥太郎は少しだけ窺うように訊いた。 「お前、何者なのだ」 老人はつまらなそうに言った。 「何者でもない。否、何者でもなくなった、と言うたほうがよいか。都に上り、人を殺めてからな」 その答えに弥太郎は目を剥いた。 「戯言はよせ、お前のような者が……!」 「のう、お主。人を殺してなんとする」 誰かの命に代えてまで、お主はなにが欲しいのだ。 老人の声が響いた。
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「決まっているだろう」 名誉、夢、覚悟。 弥太郎の胸に様々な言葉が浮かんだが、口からは弱々しい息が漏れただけだった。 「迷っておるのだな」 「迷いなどない!」 「たとえ、自分の家族を殺める事になっても、お主は同じ事を言えるのか」 まるで、老人は弥太郎のなかに、誰か他の人物の影を見ているようだった。 俺は、お前の孫とは違うぞ。 そう叫ぼうとして、弥太郎ははたと気づく。 「それでは、人は斬れぬなぁ」
- 完 -