さよならエスケープ

空気をひとつ、飲み込んだ。 身体が少し、軽くなった。 空気をふたつ、飲み込んだ。 身体がまた少し、軽くなった。 お父さんが不思議そうな顔でいう。 「どうして空気を飲み込むんだい?」 わたしは澄まして答える。 「お空のおかあさんに会うためよ。」 お父さんが言っていた。お母さんはお空に行ったのだと。お空に行ったまま帰ってこないのは、きっと迷子になったのね。 だから、わたしは探しに行くことにした。

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空気を飲み続け、身体がふわふわと浮かぶようになると、わたしは学校のプールの授業で教わった平泳ぎで空を泳いだ。 風に気をつけるんだよー、というお父さんの声を聞きながら、わたしは雲に向かって登っていく。 でも、なかなか前に進めない。泳ぎ方が悪いのかな? 「なにやってんのー?」 間延びした声の方向へ顔を向けると、カラスさんがわたしをみてた。 「迷子になったお空のお母さんを探してるの」

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「それならお空を案内してあげるよー」 そう言ってカラスさんはひらりと身体を翻すとわたしが向かい風を浴びないように先陣を切ってくれた。 空気は少し肌寒いけどお空の透き通った青い光に全身を包まれて清々しかった。 向かうところ敵なしに思えた。 あとは早くお母さんにあいたい。 お空をかく円をなるべくおおきく、おおきくしながらわたしはゆっくりと、でも着実に前に進んでいった。

さぼん

6年前

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気がつくと、青く光っていた空は、より深く澄んだ藍色に変わっていて、キラキラと星の瞬きが見え始めていた。 いつの間にか空の泳ぎ方には慣れ、肌寒さももう感じなかった。 「ごめん、ボクが登れるのはここまでだー」 カラスさんが言った。 「もーっと空気を飲み込んで。それがなくなったら、虚空を飲み込んで。あとは彼が案内してくれるよー」 またねー、と早口に言いながら、落ちるように飛び去ってしまった。

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「驚いた。ここまで来たのは君が初めてだよ」 ふいに声がして見ると、わたしと同い年くらいの男の子がいた。 「お母さんを探しにきたの。見なかった?」 「あっちだよ」 男の子は遠くに見える光る星を指差すと、軽やかに夜空を泳いでいく。わたしは虚空を飲み込み、男の子の後を追った。 「君は今までいろんなものを飲み込んできちゃったんだね。全部吐き出さないと、お父さんのところにはもう帰れないよ」

おちび

6年前

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「お母さんに会ったらお父さんのところに戻らないと。どうしたらいいの?」 「でも君は虚空を飲み込んだじゃないか。虚空は君の身体に穴をあける。空虚なものを吐き出すことはできないよ」 見ると、わたしの胸にはぽっかり大きな穴があいていた。お母さんに会いにいくのに夢中で気がつかなかったのだ。なんだか気が重たくなって、わたしは立ち止まった。 「どこを探しても、その穴の代わりに君を埋めてくれるものはないんだ」

aoto

6年前

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男の子のその言葉が、ぐりぐりとさらに胸の穴を削る。それが怖くて、これ以上失いたくなくて、私は男の子に言い返す。 「カラスさんに教えてもらっただけだもの。それにあなただって。ここまで来るためにたくさん虚空を飲んだでしょう。あなたも戻れないんじゃないの?」 そう言って睨み付けると彼は顔を少し顰めてから、遠くに目をやった。懐かしいものを見るかのような眼差しで。私はどきりとする。 「僕は…」

紬歌

6年前

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誰かが私を背中から引っ張り上げた。声を出せずそのままぐんぐん高く上がっていく。 霞むほど遠くで彼がおぼつかなそうに手を伸ばしていた。それもあっという間に見えなくなって、私は暗闇へ放り投げられた。 カラスさんみたいな真っ暗闇にひとりぼっち。 忘れていた大事なこと。お母さんはいつも教えてくれた。 「カラスが鳴いたら帰るのよ」 優しい声が耳元で聞こえた。 体の中からパチンと何かが弾ける音がした。

12unn1

6年前

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気がつくと、私の目の前には白い天井が広がっていた。私が目を覚ました事に気づき、お父さんは大袈裟な声を上げる。 「無事で良かった…!」 お父さんの目から涙が溢れていく。 温かい手が私の手を強く握った。 「お前までいなくなったら…」 お母さんには会えない方がいいんだね。ねぇ、お兄ちゃん。 私は必死に虚空を吐き出す。 茜色をした夕焼け空を、「カラス」が静かに飛んでいた。

- 完 -