夏に響くは鬼灯の音

空気が熱を孕んでいる。ただ佇んでいるだけでも、後から後から汗が滴るような、風のない午後だ。 黒く見えるほど晴れた空に目を眇めながら、男は肩の天秤棒を担ぎ直した。途端、軽やかな澄んだ音が鳴る。天秤棒の両端には、枝垂れるように、鬼灯に似た朱い風鈴が下がっていた。硝子が触れ合う特有の、かんと高い音が幾つも重なり、終わることのない和音を創り出す。 「おじちゃん、ひとつちょうだい」 不意に、幼い声がした。

みかよ

12年前

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男が振り向けば、年の頃五つ六つの小童が見上げていた。此方に突き出された小さな拳が開くと、赤褐色の硬貨が姿を見せる。 「持ってるのこれだけか」 力強く頷いた。 「おじちゃんの風鈴な。これじゃ買えないんだ」 今の空のように快晴だった小童の顔は、次第に曇りを帯びてゆく。男は思い倦ねた挙げ句、棹に生る朱い実を一つ捥ぎ、小童の前に差し出した。 風鈴が鏗鏘とした音色を奏でると、空は一層晴れ渡った気がした。

saøto

11年前

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小童が途端に晴れ晴れとした笑顔を見せる。受け取った朱い風鈴をしげしげと眺める小童の赤い頬が、手に持つそれと並んで真っ赤に熟れた柿を思い起こさせた。 そのまま駆けていくかに見えた小童は、ふとまた戻ってきて赤褐色の硬貨を渡していった。 男は銭を大切に懐へとしまい込んだ。朱い風鈴が、男を嗤うようにからからと音を奏でる。 「あんたも酔狂だねえ」 若い女の声が、その背を追う。 「あたしにもひとつおくれよ」

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男は三倍の値段を言うと、女は軽やかに笑った。 「馬鹿を言うんじゃないよ。あんたの風鈴なんて、たとえただでもいらないよ」 そして、今日も売れてなさそうだとか、あんたいつまでこの商売してんのとか、そういう話をした。 男はそこまで思ってんなら買ってくれよ三つくらい、と返す。 「馬鹿だねぇ。そんな話をしにきたんじゃないのに」 誰に言ったのかも分からぬ女の呟きに、男は聞こえないふりをした。

夏草 明

11年前

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男は首に掛けた手拭いで汗を拭うと、天秤棒を担ぎ直し吐き出した。 「冷やかしならごめんだぜ。商売の邪魔にならぁ。あっち行っておくんな」 それきり女を顧みようともせず、乾いて埃の立つ通りを陽炎のように歩き始めた。 「馬鹿野郎。今更何だってんだ」 滴る汗が目に入るのも構わず、ひたすら炎天の通りを歩いた。 「馬鹿野郎、馬鹿野郎」 どれほど歩いたか、いつの間にか男はかつて住まっていた横丁の角に立っていた。

Noel

11年前

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東西に分かれる路地に沿い、平屋造りの長屋があった。かつて男はここで女と暮らしていた。壁一枚で仕切られた部屋に、隣の赤子の泣き声が夜毎聞こえたものだった。 暑くて寝苦しいのだろう、と男は風鈴を軒下にぶら下げた。わずかな風が短冊と遊んで、舌を揺らす。儚い音は隣の赤子の耳にまで届くのだった。 女と別れたことに未練を持った覚えはなかった。けれども男の脳裏を過ぎるのは、所帯を真似たようないつかの日々である。

aoto

11年前

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女は、いったい何をしにきたのだろうか。 先刻の呟きを思い返し、男は訝った。 かつての日々の振舞から考えれば、用もないのに現れるような女でないことは明らかだ。唐突な再会にうろたえ逃げるように去ったことが、俄かに悔やまれた。 辺りにはいつの間にか夕闇が迫りつつある。幾らか出てきた風に揺れる風鈴の音が、奇妙なほど物悲しい色を帯びて耳に届いた。 「何だ、ここにいたの」 背後で女の声がした。

misato

11年前

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男はその声に一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。 「…帰んな」 「なんだい、釣れないねえ。折角、いい仕事持って来てやったのに」 「今忙しいんだ」 「まさか、ウチの組に借り作っといて、やらないってんじゃないだろうね」 「…チッ」 すると女は賽を二つ、それと紙を一枚男に放り投げた。 「解りゃいいんだよ。ま、お互いいい関係でいようじゃないか」 そう言って女は玄関の戸を開け、出て行った。

hyper

11年前

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借家の一角に大きな鴨居掛けがあり、男はそこに天秤棒を引っ掛けた。 風もない場所での風鈴達は、まるで鬼灯の暖簾のようだった。 「ふんっ、客は小童だけか…」と、男は懐から赤褐色の小銭を出した。カサリ、と先刻女からの紙切れも指に触れたので、灯籠に近づき眺める。 「鬼灯を纏いし朱い風を頼む」とだけ書かれた紙を読み終えたと同時に、り、り、りーんと音がした。 戸を開けると昼の小童が風鈴を持って立っていた。

11年前

- 完 -