野菜の苦悩

妻のマサミは家庭菜園に夢中だ。 愛情込めて作られた野菜は食卓を色鮮やかなものにした。 結婚して三年目、マサミは妊娠した。悪阻が酷く菜園の野菜は殆ど枯れた。かろうじて無事だったネギだけは元気に成長していた。 ある晩、マサミの変わりにネギを切っていると「痛い」という声が。マサミに何かあったのかと焦ったがマサミは眠っていた。 再びネギを切る。断面が人の顔のようだ。 「いたい、いたい。やめて」

12年前

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ネギをまな板に置いた。 幻聴だなんて俺も緊張してるのかもしれない。 俺とマサミの間には一年前にも子供を授かったものの初期に流産した。 今、新たな命を宿したマサミは喜びよりも不安と緊張で過ごしている。悪阻の体調の悪さもマイナスな思考に転換しているようだった。 せめて食事の用意くらい俺が。ネギに包丁を入れた。 「いたい… 聞こえてない?ねぇ」 テレビの怪談番組でみる幽霊の声のようだった。悪寒がした。

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…いや、気のせいだ。疲れているんだ。俺はそう自分に言い聞かせて、ネギを黙々と切っていった。 しかし、切る毎に顔に見えるネギはどんどん増えていき、その度に耳元の幻聴がどんどん大きくなっていった。 「ねえ、いたいんだよ…?…分かってるよね?…聞こえてるでしょ?無視しないでよ」 くそ! 俺は幻聴を断ち切ろうと、顔に見えるネギの一つに包丁を振り下ろした。 「ぎゃっ!」 瞬間、包丁が赤く染まった気がした。

harapeko64

12年前

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「はぁ、だからやめろと言ってるだろう…。」 ネギよ、頼むから黙ってくれ…。これは俺の思い込みなんだ。これ以上はもう限界だ…。 『聞いているのかい?君のことだよ。そこの君。』 !? う、後ろ?後ろから声が? 冷房が効いているのに、身体中汗ばんできた。寒気と共に、汗が滴り落ちる。 震える手で包丁を握りしめる。体が硬直し振り返ることができない。なんとか、一言を絞り出した。 「ど、どちら様?」

12年前

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「僕が誰か解らない……ま、仕方ないね」 意外に若い声だが、俺は金縛りにあったかのように、身動きひとつとれない。 「そんな君だから、こうして僕がやって来たんだよ」 ……どういう事だ? 「家庭菜園、枯れちゃったね」 声の主は溜め息をついた。 確かに、マサミのつわりが酷くなって以来手つかずで、殆ど枯らせてしまった。 でも、それがどうしたって言うんだ 「君たちが殺したようなもんだ」 声が急に殺気づく。

kyo

12年前

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「い、いい加減にしろっ」 俺は意を決して、包丁を握りしめたまま、後ろを振り向く。 だが、背後には誰もいない。 背筋が薄ら寒くなる。 とにかく、早く食事を作り終えてマサミのところへ持って行こう。 まな板に向き直ると、輪切りにされたネギたちの顔が、苦悶の表情を浮かべて歪んでいた。 「ひっ」 いたい、いたい、いたいよう…、とネギたちの声が耳に溢れる。 俺は包丁を放り出し、頭を抱えて絶叫した。

12年前

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痛い痛い痛い痛い痛い… 耳にはその言葉がぐるぐると叫び続けている。その叫び声が俺自身の物なのか、 ネギの物なのか、区別できなくなっていた。 次第に俺は、理性という物が無くなっていって… 〝畑を消せばこの忌まわしい声も消える″ 俺は、自分が狂気に飲み込まれた事さえ気付かずに、ひたすら、畑を消す事だけを 考えた。 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い… 呪詛のようなこの声は一向に止む気配も無い。

千景@

12年前

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『やめろぉっ‼』 俺は走った。畑を消すために くわを振り上げて振り下ろそうとした。 が、やめた。 やさいは苦しんでるんだ。 俺は野菜の種を植え、水をやった。 その瞬間

haruki

12年前

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「そんなことをしても意味はない!」 声が響いた。 「君たちは野菜を殺したんだ!元気に育つはずだったんだ!また新しい種を育てて枯らしてしまうくらいなら、植えない方がましだ!」 「いや、お、俺は…!」 俺は怖くなって畑にしゃがみ込んだ。 「マサミさんと赤ちゃんの魂はもらったから、あとは君だけだよ。」 ーー! 俺はネギだ。でもご主人様は水をやってくれない。ネギは強いから大丈夫だけど、他の子が心配だ。

- 完 -