目が覚めると見知らぬ中高年の男女が奇跡だと言わんばかりの表情で私を見つめていました。彼らは私の両親だそうです。 医者によれば私は五年もの月日を眠り続けていたらしく、何らかの記憶障害が生じているとのことでした。確かに、覚えていることと言えば自分の名前くらいのもので、それ以外はさっぱり思い出せません。 翌日、病室に駆け込んできた美しい青年はこちらを見るなり泣きました。しかし彼は誰なのでしょう。
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どなたですか、と私は問うてみました。長いこと眠っていたせいか、声は掠れ、私自身にもよく聞こえないくらいでした。 それでも青年にはわかったようでした。美しい顔を歪め、彼はまた涙を零しました。 「僕だよ、裕樹だよ。僕がわからない?」 青年の様子はとても辛そうで、私の胸まで痛くなるほどです。 けれども彼が誰なのかは、やっぱりわかりません。私は首を振りました。 「ごめんなさい。わからない」
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青年──裕樹さんは黙したまま、哀しげな顔で私を見つめていました。そしてようやく一言、私の名を呼ぶと、堪えきれない様子で病室を飛び出していきました。 その後、両親らしき男女や裕樹さんの他にも、多くの人が私の見舞いに訪れました。私はどうやら沢山の人に愛されていたようなのですが、覚えのある顔は一つとしてありませんでした。 皆、私の反応に傷付いて去っていきます。それが私には、酷く理不尽に思えるのでした。
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忘れてしまった私が悪いとでも言うような、皆の傷ついた顔。 何故忘れてしまったのかも、何故五年もの間眠っていたのかもわからない。 わからないことだらけの状態で、何度も見せられるその表情は、真っ白だった私の心に深く刻まれていきました。 何故、そんな顔をするの?忘却を願うのはいけないことだったの? 私は、忘却を望んだの。 ………あれ? 今、私、何を考えていたのでしょう? 何だか、頭がボーッとする…
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頭を押さえた私に、両親は心配そうに声をかけてくれました。せっかく取り戻した意識が、再び途切れることを想像してしまったのでしょう。 白い靄のような朧げな心に、何か、留めておいたものが引っかかるような心地がしました。私が眠り続けてしまった経緯を、両親に尋ねる必要がありましたが、私はなかなかその勇気を出せずにいました。おそらく、私はその真実から目を背けたくて、このようなことになってしまったのですから。
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どうして自分が眠り続けていたのか、と尋ねる代わりに、裕樹とは誰かと尋ねました。相変わらず私の声は掠れていました。 様々な人が私を訪ねてくれましたが、美しい顔を持つ彼だけが、私の胸の中に不思議な棘を残して行ったのです。 両親は顔を見合わせました。なぜだか二人とも困った顔をしています。しばらく沈黙が続きます。口を開いたのは母の方でした。 「あの人は、あなたの恋人ですよ」 恋人。あの美しい人が、私の……
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数日後、私の元に再び裕樹さんが来ました。私が記憶を失った事に、少し心の整理がついたのだそうです。彼は私との思い出を語ってくれました。話を聴いて、私は愛されていたのだと思いましたが、何故か違和感が拭えません。私は、この人と居て本当に幸せだったの? その時、裕樹さんの次の言葉で、電流が走る感覚がしました。 「また一緒に居よう。今度は絶対離れないように」 思い出したのです。 彼が私にしたことを。
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「ごめんなさい。記憶が戻らない今の状態では、何も考えられません…」 私は記憶が戻りつつあるのを感じながら、それを隠して彼に帰ってもらいました。 一人になってみると、絡まった糸がほどけるように頭の中で次々と記憶が蘇ってきました。両親の事も、会いに来てくれた友人たちの事も、今ならはっきりと思い出せます。 そして、祐樹さんの事も。 両親も気付いてはいませんでしたが、彼はいわゆる、サイコパスでした。
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「じゃ、また来るよ。必ず–––。」 そう言い、いつものように私の額にキスをし、微笑みながら病室を出る彼。 私は、記憶が戻って事は誰にも話していない。 そしてまた今後話す事もないだろう。 私が、私であるために。 彼は危険だ。今、彼の微笑みを見て、改めてそう感じた。いつ牙を剥くかわからない。 「怖い–––。」 思わずそう呟いていた。 その時、ドアの向こうで誰かが微笑んだ気がした。
- 完 -